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読書感想文
 
宇野浩二「苦の世界」を読む

 文学史の中には、漱石・鴎外ほど華やかではないが、ささやかな光を放って長く読者の心に残っている作家が結構いる。その一人が宇野浩二である。
 宇野は1891年に生まれた私小説家である。私小説家といわれるだけに生活は常人の生活とはかけ離れていて、小説を書くにも、自宅の机を前にして書くのではなく、旅館に泊まりこみ、蒲団の中で、うつ伏せになって書いたといわれている。作家の水上勉は宇野のことを畏敬している。
 私は学生の頃、何となく宇野の「苦の世界」を読んで、びっくりしたことを覚えている。とにかく、掛け値なしにおもしろかったのである。こんなにおもしろい私小説があったのかと思ったほどである。以来、私は何度となく、「苦の世界」を読み直し、この作品は世界文学レベルであると確信するに至った。水上が宇野を畏敬したのがわかる気がした。
 宇野は大阪南の宗右衛門町で育っただけあって、大阪生まれの大作家井原西鶴の影響があったのかもしれない。宇野は西鶴同様に、悲惨な状況にある庶民を滑稽に描くのがたいへんうまいのである。

 「苦の世界」はタイトルが示すように、自らの苦しい人生を描いた私小説である。ただし、「私」の語りではあるが、一般の私小説とは違って、堅苦しい文体ではなく、冗舌な文体で語られている。この文体が、「苦の世界」を最高級の作品に押し上げている。
 「苦の世界」は大きく分けて、前半と後半に分かれる。前半は、「私」がヒステリイの妻に悩む物語である。妻は芸者をしていたのだが、「私」は彼女を見初めて、芸者屋から連れ出し、二人して駈け落ちをした。「私」も妻も追われる身になった。「私」は偽名を使って、母親と妻と三人で下宿屋でひっそりと生活をした。
 「私」はいつも妻がヒステリイを起こさないかとびくびくしていた。一旦、ヒステリイになると手がつけられない状況になった。他人がいるのもかまわず、大声で喚き、物は投げるわ、「私」に暴力を振るった。母親とは当然うまくいかず、母親は親戚の家へと逃げ出した。
 「私」と妻は下宿を変えたが、妻のヒステリイは病気で治るはずもなかった。そのうち、「妻」は芸者に再びなりたいと言い出し、横浜で芸者になった。「私」はとりあえずほっとした。
後半はヒステリイの妻と別れた「私」が知り合いの家を転々とする物語である。「私」はしがない絵描きで、山本という男の経営する小さな出版社で編集の手伝いをしていたが、その出版社が潰れ、山本は破産した。全く収入のなくなった「私」は下宿の支払いができずに、夜逃げをした。そして、知り 合いの家を泊まり歩いた。
最初は法学生の鶴丸の下宿にやっかいになるが、鶴丸は勉強もしないで女にうつつを抜かしていたので、父親に強制的に田舎に連れ戻された。次に、「私」は売れない文学者の木戸の下宿にやっかいになる。毎日、木戸の下宿にいるわけにもいかないので、偶然知り合いになった津田沼の半田という男の家にもやっかいになった。「私」は東京の木戸の下宿と津田沼の半田の家を交互に泊まるようになる。
 「私」は仕事につくこともできずに、東京と津田沼を往復する生活を続けた。「私」は自虐的に、自分の生活を語っていく。

 宇野はロシアのゴーゴリが好きで、「苦の世界」はゴーゴリの「死せる魂」をモチーフにしているといわれている。
 ゴーゴリはロシアの庶民の悲惨な生活を哀れみとユーモアをもって描き、読む人に、ロシアの庶民は可哀想だと思わせるのに成功した。
 宇野も同じように、日本の庶民の悲惨な生活を滑稽かつ諧謔的に描いて、読む人に、日本の庶民は可哀想なのだと感じさせるのに成功した。

 
宇野浩二「蔵の中」を読む

 小説家とは概して貧しいものである。中には、ベストセラーになるような作品をたびたび書いて、金持ちになる小説家もいるが、ベストセラーになる作品はそう書けるものではないし、まして、文学作品を書こうとする小説家はベストセラーを書こうとは思わないはずだ。小説家とは、自分が納得する作品を書くもので、売れる売れないは結果論である。 戦前にもベストセラーといわれる小説はたくさんあった。ところが、そのほとんどの作品は現在、読むことはできない。時間という流れの中に埋没してしまったのであろう。それでも、ベストセラーなどにならなくても、風雪に耐えて、現在まで読み継がれる珠玉の作品というものもある。
 宇野浩二という小説家は、夏目漱石・森鴎外・谷ア潤一郎などのように華やかさはないが、宇野の作品は、地中にしっかり根を張ったごとくに、微動だにすることもなく現在まで読み継がれている。私は「苦の世界」を読んで以来、宇野の大ファンである。
 宇野は早稲田大学を中退し、一応小説家として生きていくのだが、つねに貧乏であった。つき合う女といえば、三流芸者・街娼・酒屋の酌婦などの女であった。女のヒモみたいな生活をしたこともあり、女が自ら芸者屋に身を売って宇野を助けたこともあった。
 宇野の作品に共通しているのは、貧しい人間たちが登場することである。
 ところが、作品はまったく暗くなく、むしろ滑稽味があって、すこぶるおもしろい。宇野は文学史上では、私小説作家の部類に入るらしいが、私にはとてもそうは思われない。 私は、宇野の作品を読むと、よく井原西鶴とゴーゴリを思い浮かべたが、豈(あに)はからんや、宇野自身は西鶴とゴーゴリのファンであった。西鶴は人間生活の悲惨さを滑稽に描き、ゴーゴリは慈しみとユーモアをもって描いている。

 宇野浩二の「蔵の中」は宇野と思しき小説家が語る短編小説である。最高傑作である。 「私」は質屋に行こうと思い立った。金を借りに行くのではない。今まで質草として提供した「私」の着物を虫干しするためである。
 「私」は小説家ではあるが、貧しい。下宿屋に住んでいる。四十歳を過ぎてはいるが、独身である。一度も結婚しなかったわけではない。一度結婚したが、妻のヒステリーで離婚したのである。
 「私」と質屋は長いつき合いである。質屋通いは「私」の生活の一部であった。「私」はいいかげんな男で、友人・知人からは信用されていない。だが、質屋からは信用されている。それはきちんと借金の利子を毎月支払うからである。ふつう、質屋から金を借りた場合、利子など払わずに質草を流してしまうのだが、「私」は質草を決して流さなかった。かといって、元金を払って、質草を請けだすということもしなかった。着物が必要のときは、無理しても新しい着物を買った。そして、その新しい着物も用済みになると質屋の蔵の中に納まるのである。
 かくして、質屋の蔵の中には、「私」の着物がたまった。「私」はその着物が傷まないように虫干しをしようと思ったのである。
 質屋の番頭は「私」の申し出を断ったが、たまたまその場に質屋の店主の妹がいて、彼女が「私」の申し出を許してくれた。彼女は離婚して、実家である質屋に出戻っていたのである。三十歳過ぎの美人である。
 「私」は、質屋の蔵の二階で着物の虫干しをした。そのとき、店主の妹が二階に上がってきて、「私」に話しかけた。彼女は「私」のことを有名な小説家だと思っており、「私」に興味を持ったらしい。しかし、「私」のつまらない一言で彼女の心を傷つけてしまった。ヒステリーが正当な離婚の理由になるといってしまったのだ。彼女はひどいヒステリーで、それが理由で離縁されたのである。

 私は「蔵の中」で短編のおもしろさを堪能した。

 
本郷菊富士ホテル跡の石碑
江の島東屋跡の石碑
江の島東屋跡の案内板
作文道場宇野浩二(うのこうじ)。
1891年(明治24年)7月26日 - 1961年(昭和36年)9月21日)福岡県福岡市南湊町に生まれる。本名は宇野格次郎。1910年(明治43年)に早稲田大学英文学科予科に入学。その後、卒業試験に落第し早稲田大学中退。『苦の世界』を『解放』に発表、新進作家として文壇的地位を確立した。1923年(大正12年)東京本郷菊坂の菊富士ホテルに仕事場をもった。
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