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読書感想文
 
山本周五郎「栄花物語」を読む

江東区霊厳寺にある松平定信墓所 江戸時代について、歴史の教科書で大々的に扱うのが、いわゆる三大改革なるものである。すなわち、徳川吉宗の享保の改革、松平定信の寛政の改革、水野忠邦の天保の改革である。この三つの改革はかなり詳しく解説され、特に、享保の改革・寛政の改革は肯定的に評価されている。
 そもそも改革とは、世の中が不況で不安定になり、庶民の生活が苦しくなるから行うのであり、たびたび改革を行うこと自体、いいことではない。
 元禄以降、幕府の財政は悪化し、国全体の成長は止まったようになった。当然、庶民の生活は苦しくなるが、それ以上に苦しんだのが、武士階級である。幕府だけでなく、大半の藩が財政危機になった。幕府は、とにかく改革をしてまず、幕府の財政を改善して、景気を向上させなければならなかった。
 はたして、享保の改革・寛政の改革は成功したのであろうか。結論からいうと、失敗であった。経済はよくなるどころか、より悪化した。二つの改革とも、質素倹約を標榜し、贅沢を徹底的に取り締まった。少しでも、市場経済の仕組みを知っているものならば、質素倹約が愚策であることにすぐ気付くはずである。
 享保の改革以後、経済が悪化の一途をたどっているときに、田沼意次が筆頭老中になった。田沼は画期的な政策を打ち出した。世にいう田沼時代を築いたのだが、田沼の評判はすこぶる悪い。歴史の本では、ほとんど悪人扱いである。田沼は賄賂政治を実践し、自ら賄賂をたくさん受け取り、贅沢三昧に暮らしたという。
 実際に、田沼の政策は本当に愚策であったのであろうか。印旛沼の開拓を見ても愚策とは思えない。それどころか、今でいう健全なる公共投資ではないのか。ニューディール政策が評価されるのなら、印旛沼の開拓が評価されてもいいはずである。どうも、田沼に対する評価はかなり歪められているのではないか。

 山本周五郎の「栄花物語」は、田沼意次を主人公にした長編小説である。栄花とは栄華のことで、このタイトルは、世間の田沼に対する偏見を皮肉っているように思える。小説の田沼は、清廉潔白で一切の贅沢はせず、国のことを憂い、経済を向上させるために、頭と体を酷使しているのである。とても栄華とは言い難い。
 主人公は田沼であるが、信二郎・保之助という二人の若者を中心に物語は進んでいく。信二郎と保之助は友人同士である。信二郎は旗本の家に生まれたが、侍の道を捨てて、戯作者になった。保之助は部屋住みであったが、藤代家という由緒ある家の入り婿となった。保之助は藤代家の一人娘のその子と結婚するのだが、その子は信二郎の愛人であった。その子は、信二郎なくして生きることができない女であった。そのことを保之助は全く知らない。
 信二郎は田沼を非難する戯作を書いた。裏では、田沼の政敵松平定信が糸を引いているようだった。保之助は反田沼を意図する松平一派に組み入れられた。二人とも、初めは、田沼のことを嫌っていたのだが、だんだんと田沼に対する見方が変わってきた。
 信二郎は田沼を非難する戯作を書くのをやめた。保之助は、松平を裏切った。そのため、二人とも松平一派から狙われるようになった。
 田沼は景気を向上させるために、いろいろと斬新な政策を打ち出すが、評定会議でことごとく潰されてしまう。田沼の回りは敵だらけであった。世の中は不況のどん底になり、飢饉も起き、田沼は庶民からも嫌われた。田沼はまさに四面楚歌であった。それでも、田沼は精一杯、世の中全体のために孤軍奮闘した。田沼の息子の意知(おきとも)が江戸城内で殺されてから、田沼はいよいよ窮地に落ちた。
 保之助はその子とはうまくいかず、その子の元から逃げ、世をはかなみ、吉原の遊女と心中した。信二郎も松平一派に殺される寸前であった。

 「栄花物語」は暗い時代を扱った小説であるが、信二郎という自由奔放に生きる人間を創りだした。ある意味、田沼も、幕藩制度の中で常識にとらわれず、国のために自由に政策を考えたのであろう。

※:写真は、江東区霊厳寺にある松平定信の墓所です。

 
山本周五郎「正雪記」を読む

文京区の忠弥坂にある案内板 由井正雪は歴史の教科書では、幕府転覆を企んだ悪名高い男として記述されている。正雪が起こした事件は慶安事件と呼ばれるが、一般には、由井正雪の乱といわれる。
 実際に、正雪は浪人たちを組織して、記録に記されているように、幕府を倒して、自らが権力の座につこうとしたのであろうか。慶安事件は、名前の通り、慶安4(1651)年に起こった事件であるが、その時代は戦争の時代から平和の時代に変わった時代であった。正雪は、はたして、時代を戦国時代に逆戻りさせようとしたのであろうか。事件を起こした理由はどうであれ、正雪の評判はあまりいいものではない。
 ところが、山本周五郎の目を通すと、由井正雪という人間は、まったく違う人間になる。正雪は、魅力的で、多くの浪人たちから尊敬される軍学者になるのである。
 
 山本周五郎の「正雪記」は由井正雪の波乱の生涯を描いた大河小説である。周五郎はこの小説で、浪人という幕藩体制からつまみ出された元武士たちを、憐憫の情をもって描いている。
 私は、学生の頃、周五郎の小説を貪るように読んだ。周五郎の小説は、社会的弱者を憐憫の情で描いたものが多い。私には、周五郎の作品が、どこか、ロシア文学に通ずるような気がした。ドストエフスキー・トルストイを含んだロシア文学の伝統の一つは、社会的弱者である民衆を憐憫の情で描くことである。周五郎の弱者を見る目はやさしく、慈愛がこもってる。私はいつも、周五郎の小説を読み終わった後、心が温かくなるのを感じた。
 正雪は幼名を小太郎といい、駿河の府中で紺屋の子として生まれた。小太郎は紺屋を継ぐことはなかった。十五歳のとき、府中にきた細工師に連れられて江戸に出た。小太郎は久米与四郎と名乗り、人足をやりながら、同じ長屋に住む兵学者石川主税介(ちからのすけ)の講義をきいた。石川は楠木流の兵学を教えていた。与四郎は兵学だけでなく、儒学も学んだ。与四郎は力をつけ、兵学者として身を立てようとしたが、紀州徳川家の藩主に兵学の講義をしに行ったとき、そこで、藩の家老に手ひどく恥をかかされた。与四郎は、石川の反対を押し切って、放浪の旅に出た。石川は与四郎を跡継ぎにして、娘と結婚させる気でいた。
 幕藩体制も30年を過ぎ、徳川幕府は盤石となり、世は、まさに太平の世になりつつあった。ところが、世の中が平和になるにつれ、戦うことを仕事としている多くの武士たちが職を失い浪人となった。加藤家・福島家などの豊臣恩顧の大名家も潰された。たくさんの浪人たちが路頭に迷った。
 幕府は浪人に冷たい仕打ちをした。浪人たちを助けるどころか、彼らをこの世から抹消しようとした。その旗振り役が老中松平信綱であった。信綱は策略を巡らせて浪人たちを駆逐しようとしたのである。
 そんなとき、島原の乱が起こった。多くの浪人たちが幕府の傭兵となり、反乱軍を鎮圧した。与四郎も傭兵の一人となったが、なんと、浪人の傭兵たちは、味方の幕府軍から殺されかかった。この機会をとらえて、幕府は浪人たちを戦闘中に背後から、鉄砲で殺そうとしたのである。この計画を立てたのが信綱であった。与四郎は命からがら逃げ出した。
 以来、与四郎は信綱に対して復讐の念を持ちながら、浪人たちのために、幕府を動かそうとした。
 与四郎は、放浪の途中、偶然にも死ぬ思いはしたが、莫大な財宝を手に入れた。与四郎はそれを元手に、江戸に道場を構え、何千人もの浪人を抱えた。与四郎は名を由井正雪と改めた。正雪の評判は高まり、それを聞きつけた信綱は危機感をもち、正雪を乱の首謀者であるとでっち上げて、正雪を殺した。

 乱や事件などは、時の権力者によっていかようにも作られるものである。権力に逆らったために、いかに、正義の人たちが、この世から葬られたか。周五郎はそれが、許せなかったに違いない。

※:写真は、文京区忠弥坂にある案内板です。

 
山本周五郎「赤ひげ診療譚」を読む

小石川植物園にある療養所で使われた井戸の跡 徳川幕府八代将軍徳川吉宗は名君の誉れが高い。大岡忠相を江戸町奉行に登用して数々の善政を行った。その一つが小石川療養所の設置である。
 江戸時代にはむろん今日のような医療システムはなかった。誰でもが医者になれた。診察料も医者によって違っていた。名医と呼ばれる医者の診察料は高かった。逆に、診察料の安い医者もいたが、診察がいいかげんであった。しかし、安い医者にもかかることができない貧しい人たちが江戸の町にはいたのである。
 吉宗は小石川に療養所を設置することで、医者にみてもらうことのできない貧しい病人たちの面倒をみることにした。
 療養所は、赤ひげ先生と呼ばれる町医師小川笙船が目安箱に投書したことから設置が決まった。収容人数は40人で小川ら7人の医師が病人をみた。この診療所は幕末まで機能した。

 山本周五郎の「赤ひげ診療譚」は、小川笙船をモデルとした医師が医長である療養所を舞台にした感動的な小説である。8つの独立した短編からなり、全体として1つの長編をなしている。
 赤ひげと呼ばれる診療所の医長は新出去定である。医師は新出の他に2人いるが、1人がやめることになり、保本登が見習医として療養所で勤務することになった。保本はそれまで長崎で西洋医学を勉強した優秀な医者の卵で、幕府の御番医になるはずであった。それが、療養所勤めをすることになり、保本は大いに不満であった。療養所の医師の格は低く、報酬もよくなかった。保本が診療所の見習医になることは新出が強く望んだことであった。採用期間は1年である。
 保本は長崎遊学中に江戸に残った婚約者に裏切られ、それが心の深い傷になっていた。保本は何としても御番医になって出世したかった。
 保本は初めはいやいや療養所の仕事をこなしていた。療養所の医師が着る白い上着も着るのがいやだった。それを着れば療養所の外でも療養所の医師だとわかってしまうからである。それでも、新出は小言一つ言わずに、保本を見守った。
 新出は保本に直接教えるというのではなく、自分の行動で医師とはどうあるべきかと暗黙のうちに教えた。
 療養所には重い病人が入院しており、それらの病人の診察をするほか、新出は往診も行っていた。新出は名医で、旗本や大名の主治医をしており、多額の謝礼を貰っていた。その謝礼は療養所の経費と貧しい病人への施しに消えた。
 保本は日一日と新出と接しているうちに医師の使命とは何かを知るようになり、新出に強く惹かれるようになった。
 医師の使命とは病人の命を救うことである。ある一家が無理心中をして子供たちは死に、親夫婦が未遂に終わった。夫婦はなぜ死なせてくれないのだと新出を詰った。夫婦には死よりも生きているほうが辛かった。新出はそんなことにもかまわず、夫婦の治療に専念し、夫婦は元気になった。
約束の1年が過ぎようとしていた。保本は継続して療養所にいることに決めた。新出が許さなくても頑としているつもりであった。保本はいつしか医者としての栄達を望まなくなっていた。

 私が子供の頃、NHKで「赤ひげ診療譚」を原作としたドラマをやっていた。新出の役を小林桂樹が演じていた。私はこのドラマが好きであった。ドラマの中で新出が「医は仁術」のようなことを言っていた。子供の私も大変感動したことを覚えている。
 私は医者を志す人に3冊の本を読むように勧めている。森鴎外の「高瀬舟」、「渋江抽斎」とこの「赤ひげ診療譚」である。

※:写真は、文京区小石川植物園内にある療養所で使われた井戸の跡です。

 
作文道場山本周五郎(やまもと しゅうごろう
1903年(明治36年)6月22日 - 1967年(昭和42年)2月14日。
山梨県北都留郡初狩村(現:大月市初狩町下初狩)に生まれる。横浜市立尋常西前小学校(現横浜市立西前小学校)卒業。卒業と同時に東京木挽町二丁目(現:銀座二丁目)にあった質店の山本周五郎商店に徒弟として住み込む。
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