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読書感想文
 
志賀直哉「暗夜行路(あんやこうろ)」を読む

 小説の神様といえば志賀直哉である。漱石も鴎外も小説の神様とはいわれない。彼らは文豪と呼ばれる。
 大学生のとき、「小説の神様」と神格化された志賀直哉を敬遠して読もうとはしなかった。若い私は〜の神様は眉唾ものだと思うぐらい元気で無知だったのかもしれない。
 実は、私がなかなか志賀直哉の作品に手をださなかったのには理由がある。私は一時太宰治に入れ込んでいて、神を嫌う私が太宰を神の如く崇め奉っていたのである。その太宰が「如是我聞(にょぜがもん)」で志賀直哉に食ってかかっていたのを私は読んだ。志賀が太宰の「斜陽」にけちをつけたからだ。「斜陽」は没落貴族の話だが、志賀は太宰の貴族に対する無知を責めたのだ。太宰はそれまでも「津軽」などで志賀のことはかなりくさしていたが、「斜陽」の件にはよほど腹が立ったらしい。猛然と志賀に食いついた。
 そんなわけで、私はなんとなく志賀の作品を読もうとは思わなかった。しかし、読まないわけにはいかなかった。理由は、漱石が志賀を評価していたからだ。
 「小説の神様」といわれているけれど志賀の長編小説は「暗夜行路」だけである。すぐ「暗夜行路」には手を出さなかった。定番の「城の崎にて」「小僧の神様」から読みはじめた。読んで思わず「うまい!」と心の中で叫んだ。それから志賀の作品を読み漁った。いつしか太宰のことは忘れていた。神様と呼ばれてもしょうがないなと思うようにもなった。そして最後に読んだのが「暗夜行路」であった。奥が深く、読みやすくいい小説だと思った。それ以来ことあるごとに「暗夜行路」を読み直した。仕事で尾の道を新幹線で通過するとき、何度、降りて尾の道を散策しようと思ったことか。私にとって尾の道は林芙美子のゆかりの地ではなく、志賀直哉ゆかりの地である。

 「暗夜行路」は志賀が17年もかけて書き上げた長編である。何度も中断して書き上げたものだ。芸術作品に限っていえば、かけた時間と作品の出来ばえはかならずしも比例するものではないが、「暗夜行路」の場合は時間をかけたことだけのことはある。
 「暗夜行路」は前編・後編から構成されているが前編・後編では作品のモチーフは劇的に変化している。前編はいわば「能動的・行動的・肯定的」で、後編は「受動的・静的・否定的」である。飛行機に対する時任謙作の気持をみるだけで、謙作の劇的なる心境の変化が読み取れる。
 前編では、謙作は飛行機を人類の叡智の結晶として評価する。謙作は人間の理性を尊重し、深い信頼を置く。そして、社会の進歩は人類の理性的な営みによっていかようにもなると前向きに捉える。後編では、謙作は飛行機を否定し、自然が前面にでてくる。
 人間の理性か、それとも自然か。この2つの対立概念の上に「暗夜行路」は成り立っているのである。どこか漱石の描く世界に似ているが。
 理性を重んじていた謙作には、実の母の不義は想像を超えたところにあった。物語の冒頭、薄汚い老人が<オイオイお前は謙作かネ>といって、幼い謙作に声をかけるのは象徴的である。謙作は母と祖父との間にできた子であったのだ。理性の人謙作には耐えられない。これが原因で謙作は意中の女性との結婚ができなかった。彼は苦悩し、祖父の血を受け継ぐ如く、放蕩の世界にと沈んでいく。
 因果は巡るである。後編において、謙作が自ら望んで結婚した妻である直子も母と同じような不義を犯してしまう。謙作は苦悩を理性で乗り越えようとはしなかった。自然に溶け込むことによって解決しようとしたのである。彼は大山へとおもむき、自然のふところに飛び込んだ。
 物語の最後、謙作は大腸カタルになり死線をさまよう。急きょかけつけた直子は、
 <助かるにしろ、助からぬにしろ、兎に角、自分はこの人を離れず、何所(どこ)までもこの人に随(つ)いて行くのだ>
 と思う。志賀は間違いなく直子にこの思いをさせたくてこの長編を書き遂げたのである。こう直子が悟ったとき、謙作の中において、愛する母の不義も消え去ったのである。
 私は志賀直哉のすごさを感じる。それは、漱石がもがき苦しんだテーマを志賀が軽々と飛び越えたことである。自然に溶け込もうとした漱石はそれが果たせなかったのである。志賀は溶け込んだのである。私は「暗夜行路」を読みながら、トーマス・マンの「魔の山」に匹敵するぐらいの教養小説だと思った。

 今回「暗夜行路」を読み直して新しい発見をした。それは、謙作が母と祖父の子であるという設定が、志賀が讃岐の屋島の旅館に泊まったとき考えつかれたということだ。屋島は私には忘れられない土地である。私は6年間高松に住んだ。屋島にはしょっちゅうというくらい散歩に行った。夕日が西に沈むころ、瀬戸内海を背景とした屋島は夕映えのなかで威容を誇る。その美しさといったらなかった。その屋島の姿を見ると、静寂の中から800年という悠久の時を超えて、平家・源家の戦いの雄たけびが聞こえてきそうであった。私は凝然として屋島の姿を見続けた。志賀直哉も見たに違いない。
 志賀直哉と私は意外なところで接点があったのだ。

「暗夜行路」と「和解」の案内板

※:写真は、安孫子の白樺文学館にある「暗夜行路」と「和解」の案内板です。

志賀直哉「網走(あばしり)まで、清兵衛(せいべい)と瓢箪(ひょうたん)」を読む

 志賀直哉は明治16年(1883年)に生まれ、昭和46年(1971年)に死んだ。88歳の大往生であった。
 志賀の文学活動の期間は長かったが、長編小説は「暗夜行路」1作しか書いていない。他は中編の「和解」を除けば短編ばかりである。志賀直哉は短編作家といってよかった。 志賀の短編は名作ぞろいで、志賀は小説の神様と崇められた。数多くの文学者から畏敬され、その文章は名文の見本となった。谷崎潤一郎・三島由紀夫などの作家が書いた文章読本にはかならず志賀の作品がとりあげられた。小林秀雄も志賀に師事した1人である。
 とにかく、日本文学においては短編の名手、そして文章の達人といえば志賀直哉と相場が決まっていた。

 私が初めて志賀の作品に接したのは高校生のときで、「網走まで」であった。この作品は教科書に載っていた。心打つ作品であった。読んだあと長い間余韻が残った。
 志賀の作品を本格的に読み始めたのは「暗夜行路」を読んでからである。私は「暗夜行路」を読んで志賀のファンになっていた。志賀の作品はどれも文章が簡潔でひきしまっており、そして読みやすかった。彫琢された文章とは志賀が書いたような文章をいうのだと思った。
 志賀の活動期間は大きく3期に分けられる。第1期は小説を書き始めてから大正3年までである。ちょうど多感で悩み多い青春期にあたる。この期に書かれた作品の中では私は「網走まで」「清兵衛と瓢箪」が特に好きである。志賀の作品は自伝的なもの、見聞を題材にしたもの、そして想像をたくましくしたものなどがあるが、この2作は見聞を題材にしたものである。見聞を題材にしているとはいいながらその奥には志賀の現実認識そして弱者にたいする共感が滲んでいる。

 「網走まで」は語り手の「自分」が宇都宮の友人のもとへ行くとき、汽車の中で見たことが描かれている。「自分」は午後4時発の青森行きの汽車に乗った。混雑はしていたけれどうまく席をとることができた。同時に1人の男の子を連れ、1人の赤子を背負った母親が乗り込んできて、「自分」の席の隣に坐った。母親は26歳ぐらいで色白で髪の毛の少ない人であった。手を引かれてきた子供は7歳ぐらいで顔色の悪い、頭の大きな妙な子であった。癇癪の強いわがままな子に見えた。母親をひどく困らせる存在であるのが「自分」にはわかった。実際、宇都宮に着くまで、その子は母親を煩わせていた。
 親子3人の目的地は北海道の網走であった。網走に到着するまでは優に5日間はかかるはずであった。母親は汽車の中で2通の手紙を書いた。「自分」が宇都宮で降りるとき、彼女は「自分」にその手紙をポストに投函することを頼んだ。1通は男宛てで、1通は女宛てであった。

 「網走まで」は汽車の中での数時間のことを描いているが、この作品には親子3人のこれからの長い苦難の人生が暗示されているようだ。短編というより大長編を読んだあとの気分にさせてくれる小説である。

 「清兵衛と瓢箪」も子供の将来を暗示するような短編である。
 清兵衛は何よりも瓢箪が好きであった。1日中瓢箪のことばかり考えていた。もらう小遣いは瓢箪のために使われた。ところが、授業中、瓢箪をいじっているのを先生に見つかった。先生は怒り、そして清兵衛の家に来て母親にひどく注意をした。これが父親の耳に入り、清兵衛は瓢箪と決別することとなった。
 清兵衛が学校で見つけられた瓢箪は学校の小使に渡っていた。小使はそれを古道具屋へ売りに行った。それは小使の4ヶ月分の給料にあたる50円で売れた。古道具屋はその瓢箪をさらに地方の金持ちに600円で売った。
 清兵衛は現在は瓢箪から離れ、絵に夢中になっている。父親はまだ絵をやめろとはいっていない。

 父と対立しながらも清兵衛が将来優れた画家になることが暗示されている。

 志賀の短編を読んですぐ気がつくことだが、志賀は子供のことをよく書く。「網走まで」「清兵衛と瓢箪」以外にも子供が中心人物の作品はたくさんある。子供を書くことで、志賀は現実そして理想を表現しようとしたのであろう。

志賀直哉「和解(わかい)」を読む

 明治時代の最大の公害事件と言ったら渡良瀬川の足尾銅山鉱毒事件であろう。
 志賀直哉は18歳のとき、この鉱毒事件の被害者の農民視察旅行に出かけようとしたが、父親の直温(なおはる)に強く反対された。直温が反対したのは、直温の父すなわち直哉の祖父が古川財閥創始者の古川市兵衛と共に足尾銅山を開発したからである。また、直温自身が銀行家で経済界で重きをなしていたからでもあった。
 青年直哉は正義感が強く、虐げられた弱者である農民たちに深く同情したのである。このときの言い争いが端緒となって直哉と直温親子は対立するようになった。
 最初は古い世代と新しい世代との思想的対立といった様相を呈していたが、だんだん思想的なものから感情の入り混じったどろどろとした憎しみ合いと言ってもいいような複雑なものになっていった。2人の対立は17年ばかりも続く。
 直哉の唯一の長編小説「暗夜行路」はもともと「時任謙作」というタイトルで想が練られたものだ。「時任謙作」で直哉は父と子の思想的葛藤を書くはずであった。ところが書こうとしている間に直哉自身父親と和解してしまって、書く気力が失せてしまった。直哉は他の新しい主題を求め、それが「暗夜行路」へと結実した。

 志賀直哉の文学を語るとき、直哉と父親との不和を措いて語ることはできない。直哉はたくさんの小説に父親との確執を書いている。直哉が尾道に行ったのも父親の許から離れて自活するためのものであった。2人の不和は長く続くのだが、1917年2人はあっさりと言っていいくらい気持ちよく和解する。
 志賀直哉の「和解」は直哉と直温と思しき対立する父と子が和解するまでの状況を描いた中編小説である。

 「和解」は主人公の作家の順吉が一人称で語る私小説の形をとっている。順吉を直哉と見ても差し支えない。
 順吉は夫婦で我孫子に住んでいる。父親が住んでいる実家は麻布にある。麻布には父の他に祖母、義理の母(順吉の実母は順吉が小さい頃亡くなっている)、そして腹違いの弟妹らがいる。祖母は順吉をたいへん可愛がっており、順吉も祖母を慕っていた。
 物語はすでに順吉と父親が対立しているところから始まる。なぜ対立したかは語られないがそれが長きに渡っているのは感ぜられる。順吉は父親には会いたくないが祖母には会いたいので父親がいないときに麻布の家によく行く。
 先年、順吉の生れて間もない長女が死んだ。このときの父親の対応が順吉をひどく傷つけた。父親は長女を一家の菩提所である青山墓地でなく我孫子の墓地に葬れと言ってきたのだ。順吉の父親に対する怒りがピークに達した。対立は決定的になったと言ってよい。 順吉と父親の回りのものも非常に気を遣った。特に義理の母は2人の間を右往左往し、何とか2人を和解させようとした。
 順吉は意固地になって父親に対して心を開かなかった。それは父親も同じであった。順吉は父親とのことを小説に書こうとした。
 ところが、順吉夫婦に再び新しい生命が誕生したときから順吉の気持が変わってくる。父親の気持ちを考える余裕が出てきた。順吉は義理の母の後押しもあり、いよいよ父親に今までのことを謝った。順吉は折れたのである。
 2人は長い間の不和から解放されたのである。

 この「和解」はツルゲーネフの「父と子」に見られる父と子の思想的葛藤を描いたものではない。2人の葛藤はあくまでも感情的なものである。初めて「和解」を読んだときは何か味気ないものを感じたが、何度となく読んでいくうちにこの作品のすばらしさに気づかされた。
 何と言っても順吉の心理の微妙な変化が微に入り細を穿ってうまく描かれている。文章が引きしまって緊張感を漂わせる。
 最後は、つぼみが時間を置いて花を咲かせるように一気に和解に向かっていく。と同時に回りの世界が和やかになっていく。

 「和解」は「家族愛」を謳った傑作である。

白樺文学館

※:写真は、我孫子市にある白樺文学館です。

白樺文学館の看板

※:写真は、白樺文学館の看板です。

志賀直哉旧住居

※:写真は、志賀直哉旧住居です。

※:写真は、安孫子駅に安孫子にゆかりがある文化人の案内板です。

作文道場志賀 直哉(しが なおや)
明治16年(1883年)2月20日 - 昭和46年(1971年)10月21日)。小説家。
宮城県石巻市生まれ。白樺派を代表する小説家のひとり。代表作は『暗夜行路』、『和解』、『小僧の神様』、『城の崎にて』。
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