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読書感想文
 
織田作之助「夫婦善哉(めおとぜんざい)」を読む

 私は仕事で数え切れないくらい新幹線で新大阪駅を通過した。私は何度か新大阪駅で下車して大阪の街を歩いてみたいという欲求にかられたことがある。だが、それもはたされなかった。私は現在まで大阪の街をじっくり歩いたことがない。しかし、私には大阪の街は何ともいえないなつかしい街である。私には大阪は阪神タイガースの街ではなく、西鶴そしてオダサクの街である。

 オダサクこと織田作之助は無頼派と呼ばれ、太宰治・坂口安吾と並び称される。作之助も戦後流行作家となった。これら3人の作家たちには無頼という以外に共通点がある。それは戦中・戦後を通して変わらなかったことである。戦後、「聖戦」が「侵略戦争」になっても彼らは変わらなかったのである。とくに、作之助は戦中・戦後を通して(ただし、戦後といっても作之助は戦後1年半ぐらいしか生きていない。その間に書きまくった)、ずっと大阪の街を愛し続けた。それは西鶴が大阪の街を愛したのと同じだ。いや、大阪の街ではない。作之助は大阪の人間を深く愛し続けたのである。
 作之助の処女作は「夫婦善哉」である。今回私はこの作品を読み返して、正直脱帽した。すばらしい作品である。この作品は昭和15年に発表されたものだ。作之助27歳のときである。27歳の青年が人生の裏表、人間関係の機微、そして男と女の微妙とも計り知れないともいえる複雑な葛藤を描いたこの作品を書いたとはとうてい思えない。思わず唸るほどの出来ばえである。

 「夫婦善哉」の主人公は柳吉と蝶子である。柳吉はいい家のぼんぼんで、遊びしか能のない男である。落語の主人公にしかなれない男でもある。気が小さく、優柔不断である。蝶子は貧しい商売人の家に生まれ、当たり前のごとく茶屋に売られ芸者になる。芸者になったときのお客の1人が柳吉であった。2人はいい仲になり所帯をもつようになる。その代わり、柳吉は親から勘当された。
 夫婦になった2人は貧乏ながらせっせと生きる。生活の資を稼ぐためにいろいろな商売に手をだす。剃刀(かみそり)屋、関東煮屋、果物屋、カフェーなどをやるのだが、長続きはしないで結局やめてしまう。お金が少したまると、柳吉はその金を芸者をあげて散財してしまう。そのたびに柳吉は蝶子から折檻(せっかん)される。
 小心者で遊び好きの柳吉と気が強くしっかり者の蝶子。傍から見たら、なぜこんな男に惚れるのかと思ってしまうのだが、作之助の筆はその疑念をかき消してしまう。2人は絶妙な組み合わせなのである。男と女の仲ほどわからないものはない。男と女の関係は理屈ではないといっているようだ。
 善哉とはお汁粉のことである。物語の最後、2人は「めおとぜんざい」という善哉屋に行った。そのお店では善哉を1杯でなく、2杯に分けてだした。蝶子は2杯を夫婦となぞらえた。物語は2人がこれからもずっとくっついて生きていくことを予感させて終わる。

 「夫婦善哉」を読むと、大阪人のたくましさをつくづく感じてしまう。それにしても作之助の大阪の街の描き方は見事というほかない。町、筋、路地、坂、寺どれをとっても人の息遣いのないものはない。大阪は町と人間が渾然一体となったところなのだ。法善寺横町、宗右衛門町ぜひ訪れたい町である。
 作之助は「リアリズムの極致はユーモア」だといっている。そうなのだろう。作之助の作品がユーモアあふれるのはリアリズムを追求しているからだと思う。そのリアリズムを追求するのに効果的なのが数字である。「夫婦善哉」にも数字が頻繁にでてくる。一銭天ぷらを私は食べてみたい。数字は何物にもまさるリアリティである。おそらく作之助はこの数字の使い方を彼の大先輩にして敬愛してやまぬ西鶴から教わったのであろう。西鶴の数字の使い方は見事の一語に尽きる。

 作之助は昭和22年1月に死んだ。享年34歳である。もしもう少し長生きしてくれたらどんな名作を書いたかと惜しまれる。作之助は早くに両親を亡くし、孤独と放浪の中で生きてきたといってよい。放浪をしながら彼は芸術家に一番大切な「人間」を見る目を養ったに違いない。
 作之助の訃(ふ)に接したとき、太宰はおもわず、「織田君、よくがんばった!」と叫んだという。 

 
作文道場織田 作之助(おだ さくのすけ)。
1913年10月26日 - 1947年1月10日。
通称「織田作(おださく)」。第三高等学校文科甲類に入学するが、その後退学をする。
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