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読書感想文
 
夏目漱石「倫敦塔(ろんどんとう)」を読む

 夏目漱石がイギリスに留学中に神経症にかかったことは有名である。「夏目発狂す」ということが、日本ではまことしやかに流布した。
 留学中、漱石は夜の目も寝ずに読書に励んだ。ロンドン中にあるすべての本を読む勢いであった。漱石の読書の目的は英文学を極めることであったが、その範囲は英文学にととまらず、歴史・心理学・自然科学など多方面へと向かった。このときの読書体験がのちの大作家夏目漱石の土台になったことは論をまたないことであろう。
 漱石が神経症にかかった原因は何も、過激な読書だけではなかった。ロンドンという文明の世界の最先端をいく大都市に対して嫌気がさしたのも原因の1つであった。嫌気というより体質が合わなかったといったほうが正確かもしれない。
 漱石は地下鉄をひどく嫌った。地下鉄に乗ると吐き気を催したという。地下鉄は漱石にいわせると文明の象徴であった。なぜこれほど漱石は文明そしてそれを代表するロンドンを嫌ったのであろうか。
 初めて漱石の「倫敦塔」を読んだとき、私は漱石がイギリス社会にもつ複雑な気持を見て取った気になった。ロンドンとは体質が合わなかったが、イギリスの文明の土台をなす自由主義そして人権思想には漱石は敬意を表していた。
 自由とは何てすばらしいものであろうか。文明開化とはいっても半ば封建主義の国から来た若き漱石には実際に自由主義に接するのは頭ではわかっていても強烈な体験であったことは否定できない。
 ところが、その自由を獲得するために、イギリス社会はどれだけの犠牲を払ったのであろうか。
 漱石はロンドン塔を訪れたとき、イギリスの歴史の本質を見たのかもしれない。ロンドン塔は世にも恐ろしい場所であった。

 「倫敦塔」は漱石がロンドンに滞在しているとき、実際にロンドン塔を見たときのことを書いた回想記である。明治38年1月号の「帝国文学」に載った。「吾輩は猫である」と平行して執筆されている。
 ロンドン塔はイギリス社会の裏の歴史を象徴する建物である。それは政治犯たちが収容された牢獄であった。パリのバスチーユ牢獄と似ている。1たび塔の中に入ると生きてでることはなかった。
 漱石が留学していた頃は、ロンドン塔は観光名所となっていて、漱石はここを訪ねた。ロンドン塔の中を歩いて行くうちに、漱石はこの塔に閉じ込められた歴史上の人物たちに思いを馳せた。彼らのうちの何人かを見るという幻覚に襲われた。
 「倫敦塔」は漱石があとがきで述べているように半想像的に書き記したものである。その想像のベースとなっているのが、シェークスピアの「リチャード三世」である。リチャード三世はイギリス史において類をみない悪逆非道・冷酷残忍なイギリス王である。政敵は容赦なくロンドン塔にぶちこみ首を切った。ロンドン塔とリチャード三世は切っても切れない関係にある。
 何人もの王族たちが、権力争いの中で、ロンドン塔に幽閉された。彼らは何年も光のささない地下牢に閉じ込められた。何年か振りで太陽の光に接するのは処刑されるときであった。
 漱石は塔の壁が血塗られ、そして壁から血が滴り落ちる錯覚にとらわれた。

 「倫敦塔」は非常に恐い回想記ではあるが、またロマンチックな一面も兼ね備えている。この作品には次々と歴史上著名な王族たちが登場して哀れにそして美しく死んでいく。それはあたかも「平家物語」の世界を見るようである。
 漱石は2度とロンドン塔を訪れることはなかった。

夏目漱石「行人(こうじん)」を読む

 夏目漱石研究の大御所といえば、私はすぐに江藤淳が思い浮かぶ。江藤はいろいろな角度から漱石を分析しているが、その分析の一つに漱石が三兄の妻の登世を恋していたというものがある。私は江藤の「漱石とその時代」を読んだとき、はたして本当に漱石は兄嫁を恋していたのだろうかといささか疑問に思った。江藤は確信をもって漱石の兄嫁に対する恋を言い立てている。
 漱石の「行人」を読んだとき、まず思い出したのが江藤の指摘である。「行人」の主題の1つが弟と兄嫁との恋仲についてだからである。「行人」が江藤の論理をある意味後押ししたのかもしれない。
 「行人」は行き着くところまで行き着いたといった感のする小説である。「行人」執筆中、漱石は再び胃潰瘍を悪化させ連載の中断を余儀なくされている。「行人」の内容を思うと中断もなるほどと納得させられる。胃が破裂するような内容だからである。「行人」を書くことは自殺行為に等しいとさえ私には思われた。
 「それから」「門」では友人の妻を奪うという反社会的なことがテーマであったが、「行人」になるとそれがさらに先鋭化し、いよいよ弟と兄嫁の不倫というテーマになった。漱石は男と女の関係をとことん原初的なまでに追及しようとしたのであろうか。「行人」を初めて読んだとき、私はいいようのない重い気持になった。はっきりいって「行人」は何度も読み返す小説ではなかった。私には恐ろしい小説である。

 今回「行人」を読み直しても私にはまだ恐ろしい小説である。読み進むうちにやりきれなくなってきた。なぜやりきれなくなったのか。それはこの小説には夢も希望も描かれてないからである。あのドストエフスキーの作品でもどんな陰惨極まる事件のあとでは希望が語られる。「行人」にはその希望がまったくないのである。
 「行人」の世界は狂気の世界といってもよい。実際、「行人」の語り手の兄は狂人であり、その狂気を兄の友人は事細かく描写している。

 「行人」は一郎・二郎の兄弟と一郎の妻直の3人を中心として展開していく物語である。物語の舞台は東京ではなく大阪そして和歌山が中心になっている。物語は二郎の一人称語りで進められていく。
 一郎は学者である。二郎は一郎の弟で同じ家に住んでいる。一郎・二郎の両親は健在で、二郎の下に妹のお重、そして、一郎には妻の直と娘がいる。7人の3世代の家族と使用人が一緒に住んでいる。
 一郎はつねにあることを疑っていた。それは二郎と直が恋仲ではないかということである。一郎・二郎・直そして母親の4人が使用人の縁談のことで大阪にいったとき、はからずも一郎はふだんからもっている疑いを二郎にそれとなく打ち明ける。二郎はとりあわなかったが、一郎は直の本当の気持を教えてほしいと二郎に懇願した。大阪から和歌山に4人が遊びにでかけたとき、一郎は二郎と直の2人だけを和歌の浦に行かせる。その日和歌の浦は暴風雨に襲われ、2人はそこで1泊せざるを得なかった。その夜、直は二郎にいつでも死ぬ覚悟があることを伝えた。直は直で一郎とのことで悩んでいたのである。
 実際に、二郎と直が関係があったわけではない。すべて一郎の疑心暗鬼から生まれた妄想である。4人が東京に帰ってからしばらくすると、一郎の様子が目に見えておかしくなってきた。彼は極端に無口になり、書斎に閉じこもることが増えた。家族のものは腫れ物に触るように一郎を扱った。二郎は家にいたたまれなくて、家を出て下宿する。
 あるとき、二郎の父親が二郎の下宿を訪ねてくる。父親は二郎に一郎を旅に出して気晴らしをさせようと提案した。二郎は一郎と最も仲のよいHに兄を夏休みに旅行に連れ出すよう頼む。Hは承諾し、Hと一郎は夏休みに入ると2人して旅行に出かけた。旅行に出る前、二郎はHに兄の様子を手紙で知らせてほしいと頼む。
 2人が旅行に行ってから何日か過ぎたあと、Hから二郎に分厚い手紙が届く。その手紙には一郎の奇行のことが縷々と述べられていた。
 一郎はもはや狂人であった。一郎は不安で不安でたまらない状態であった。人を信ずることは無論できず、自殺すらできない精神状態であった。
 二郎がHの手紙を読み終えたところで物語は終わる。

 「行人」も前作の「彼岸過迄」と同様、結論のない小説である。「行人」を読み進めていくうち、私は漱石の思考がぐるぐる回転して深みにはまり込んでしまっていくような気がした。
 神経衰弱であった漱石だからこそ「行人」が書けたのか、逆に「行人」を書く思考の持ち主だったから神経衰弱になったのか。
 「行人」は何回読んでも重い気持にさせる小説である。

夏目漱石「道草(みちくさ)」を読む

 夏目漱石は文学史の上では「余裕派」といわれる。私は何故漱石が余裕派といわれるか未だによくわからない。「吾輩は猫である」は風刺的な小説で、余裕をもって世の中を見ているとでも思われたのであろうか。
 漱石が作家として登場した頃は、文壇は自然主義文学が主流であった。自然主義文学でなければ文学にあらずといった風潮であったらしい。そこへ夏目漱石という風変わりな小説家が現れた。そしてあれよあれよという間に漱石は人気作家になってしまった。文壇の人間たちは漱石の小説が人気があり、漱石がたいへんな教養人であることは認めたが、漱石の小説が一流の文学作品だとは認めようとしなかった。
 漱石も自分が文壇からどのように見られているかを当然認識していて、文壇とは距離をおいて付き合い、自然主義文学をさめた目でみていた。
 ところが漱石が「道草」を発表すると文壇は騒然とした。「道草」は自然主義文学そのものだと文壇の人間たちは思ったのだ。

 「道草」は大正4年に、「硝子戸の中」に引き続いて書かれた自伝的長編小説である。「硝子戸の中」は随筆で、幼年時代のことを語っている。「道草」ではいよいよ小説として自分の過去をリアルに書いたのである。
 それまでの漱石の作品は実体験をそのまま書いたものはなく、すべて虚構性に富むものばかりである。「道草」はそれまでの漱石の作品とは明らかに作風が違った。いよいよ漱石も自然主義文学者になったのだと誰しもが思ったに違いない。
 ただ私は漱石が意図的に自然主義の文学を書こうとして「道草」を書いたとは思わない。「道草」は書かれるべくして書かれた小説であるからだ。漱石は「こころ」まで長編小説を書き続け、いよいよ自分の存在の核心をテーマにして書かざるを得なくなってきたのである。
 その核心とは漱石の幼少期の育てられ方である。漱石はこの世に生まれ落ちるとすぐ里子に出されたが、すぐに実家に引き取られ、その後1歳のときに父親の友人塩原昌之助の養子となったのである。漱石が9歳のとき、養父母が離婚をし、漱石は実家に戻る。ところが、21歳まで漱石の籍は塩原家に置かれたままであった。それまで漱石の本名は塩原金之助であった。
 この養父母とは漱石が実家に復籍するとき完全に縁を切ったのだが実際は違った。養父塩原は漱石が有名作家になったとき、金を無心に漱石家を訪れるのである。
 「道草」は塩原の金の無心が中心テーマになっている。

 「道草」の主人公は大学の教師の健三である。むろん健三のモデルは漱石自身である。健三はヨーロッパ留学から帰ってきたばかりで、大学の近くに家を構えていた。
 ある日、大学から家に帰るとき、健三は道である人間を見た。その男は年老いてみすぼらしかったが、健三には見覚えがあった。健三はある予感を感じた。その年老いた男は島田といい、健三の養父である。健三は幼いとき、島田家の養子であったのだ。島田夫婦が離婚したため、健三は実家に戻された。その後、養育費を健三の親が島田に支払い、健三と島田家とは縁が切れたはずであった。
 島田は生活が苦しく、健三に金の無心をしにきた。健三とすれば断ることができたのであるが、いくらかの金を渡した。たびたび島田は健三の家を訪ねるようになるが、結局あるまとまった金をやって島田が2度と健三の家に来ないようにした。
 島田との問題は決着するが、健三は島田の問題も含めて<世の中に片付くなんてものは殆どありゃしない。>と思っている。

 「道草」はやはり漱石晩年の作品である。漱石はいよいよ自分の実体験に仮託して主観的真実を語るところまできたのである。その真実とは<人間社会には結論はない>というものに私には感じられる。

 
作文道場夏目漱石(なつめ そうせき)
1867年1月5日(旧暦)(慶応3年)2月9日ー1916年(大正5年)12月9日
本名、金之助。江戸出身。帝国大学英文科卒。
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