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読書感想文
 
中島敦「山月記(さんげつき)・李陵(りりょう)」を読む

旧横浜高等女学校にある中島敦の石碑 中島敦は33歳という若さで死んだ。夭逝(ようせい)した多くの作家の例にもれず、中島も死後、名声を馳せる。「山月記」は昭和17年に発表され、その年の11月中島は喘息の発作のために死んだ。「季陵」は死後発表されたものである。
 中島は短い生涯にわずかな小説を残した。全集は3巻しかない。私はこの全集をどれだけ欲したことだろう。作品の数は少ないが、どの作品も芸術性ゆたかな傑作である。「山月記」一作だけでも中島は後世に名を残したであろう。私は中国の古典を題材にしたものが特に好きである。
  中島の作品に初めて接したのは高校生のときだ。国語の教科書に「山月記」が載っていた。「山月記」を読んで私は不思議な気持に囚われた。人間が虎に変わることに何の違和感も覚えなかったのだ。高校生にもわかるくらい中島の文章が人間の本質的な一面を表現したということだろう。そのとき以来、私の胸に中島敦という作家が刻まれた。
 中島敦の作品を真剣に読み出したのは、社会にでてかなりたってからだ。中島の死んだ33歳をはるかに超え、40歳を過ぎた私が「山月記」を再び読んだとき、私は新たな感動を覚えた。文章のうまさに思わず目を瞠った。漢語が多用されているが、無駄な言葉はなく、文がよどみなくリズミカルなテンポで流れていく。1つ1つの言葉がまぎれもなく生きている。ふと声をだして読んでしまいたいくらいであった。それと同時に、私は虎になった李徴に対して、素直に感情移入できた。

 「山月記」は虎になった男の話である。中島はこれを唐代の伝奇小説「人虎伝(じんこでん)」を題材として書いた。ただ、「人虎伝」との共通点は人間が虎になるだけのことである。「山月記」において、李徴が虎に変わっていく過程を躊躇なく私は理解した。
 なぜ、李徴は虎になったのか。それは李徴の心に虎がすんでいたからだ。その虎の正体は強烈な自負心であり、あくなき名誉欲であった。李徴は詩でもって世に立とうと思っていた。せっかく官吏になっても官吏を馬鹿にし、そしてまわりのものを無視して詩でもって生きようとするのである。だが、世間は彼を認めず、悶々と生活するうちに李徴は突然虎になったのである。李徴の詩は才能を感じはさせるが、何かが欠けていた。その何かが李徴にはわからなかったのだ。
 40歳を過ぎた私には「山月記」再読は強烈な体験であった。私はそのときまで少なからぬ人生上の失敗を重ねていた。もしかしたら、私の心の中に手におえぬ虎がいたのかもしれなかった。

 中島敦の真骨頂は、極限状況にいる人間の生き様の描写にある。「李陵」はその最たるものである。「李陵」は3人の人物を中心に展開される物語である。
 李陵は漢の武帝の命により、少ない兵をひきいて匈奴征伐へと向かう。しかし、味方の裏切りなどにあったりして、しょせんは多勢に無勢、匈奴の軍門に降ることになった。李陵が捕虜になったことを武帝のとりまきの佞(ねい)臣たちは武帝に非難をこめて報告する。武帝は激怒する。このとき李陵を弁護するのが司馬遷である。当然のごとく司馬遷は罰せられる。彼に課せられた刑は宮刑であった。宮刑とは男を男でなくす奇怪な刑罰である。
 武田泰淳の名著「司馬遷─史記の世界」は「司馬遷は生き恥さらした男である。」で始まる。司馬遷は恥をさらしながら、自己の全存在を史記を書き上げることだけに集中した。史記はそれまでの無味乾燥な伝承の羅列の歴史書とは違った、生きた人間たちが躍動する歴史書として仕上げられた。
 李陵は家族が武帝によって虐殺されたことを聞き及び、漢に対する節を曲げて匈奴の単于に心を許してしまう。
 匈奴には李陵の他に漢人の捕虜蘇武がいた。蘇武はどんな過酷な状況にあっても漢に対する忠誠心を持ち続ける。蘇武は10数年ののち、漢への帰国を果たす。蘇武については史記に詳しく書かれている。

 中島敦は厭世家ではない。人生を肯定的にとらえている。李徴は虎になっても死を考えず、李陵、司馬遷、蘇武も死を考えなかった。死を考えないくらい苦しむ、これも人生だと中島は言っているようだ。中島の作品のほとんどがこれから奈落の底に突き進んでいく昭和10年代前半に書かれたことに私は驚くばかりである。

※:写真は、旧横浜高等女学校(現横浜学園)に建てられている石碑です。

 
作文道場中島 敦(なかじま あつし)。
1909年5月5日 - 1942年12月4日。小説家。
東京府東京市四谷区箪笥町(現東京都新宿区三栄町)生まれ。東京帝国大学(現東京大学)国文学科卒業。 私立横浜高等女学校(現横浜学園高等学校)に教師として赴任。
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