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読書感想文
 
永井荷風「あめりか物語」を読む

銀座4丁目付近 荷風がフランスに行く目的で、アメリカに滞在したのは明治36年(1903年)から明治40年(1907年)までで、かれが25歳から29歳までのときであった。そのアメリカに滞在中に書いた小品を集めたのが「あめりか物語」である。

 私が永井荷風に興味をもったのは私淑している江藤淳の荷風に関する著作を読んでからだ。『荷風散策』などを読んでいるうちに私は新しい発見をした。それは江藤淳は夏目漱石よりも永井荷風の方が好きなのではなかろうかということだ。それもはるかに。文芸評論家がある作家に入れ込むのは当然のことだが、江藤淳の荷風に関する文章には、荷風に対して愛情に満ち溢れ、なつかしさが滲み出、そして本当に大事な人について書いているという心情が行間から湧き上がっている。何よりものびのびと書いているのだ。

 江藤淳といえば、やはり夏目漱石であり、文学だけでなく、政治・経済・歴史の論客でもあった。それらの著作は見事な論理と鋭い舌鋒とで読む人をたじたじとさせるものであるが、荷風に関してのものになると文体そのものまでも変わってくるのだ。江藤淳は評論を書くときは、一生懸命誰かと戦っているように見えるが、荷風についてのときはそうではなく、愉しんで書いているように見える。それはあたかも荷風について書くことで疲れを癒しているようだ。
 何故これほど江藤淳は荷風に愛情をもつのか。それを知りたくて、私は荷風を読み漁ることになる。その結果、どうなったか。私は荷風の大ファンになった。できたら荷風みたいに生きてみたいとも思った。

 荷風の生き方、それは広く深い教養をベースにして、感性のまま生きる自由人の生き方である。それはともすれば人の反感を買い、貶められるようなこともあるが荷風は孤高を守った。若いときに書かれた「あめりか物語」にはこの生き方が見事なまでに反映されている。20代、ニューヨークで娼婦の館に出入りする荷風も、70歳になって浅草のストリップ小屋の楽屋に出入りする荷風も同じ荷風なのである。

 私は「あめりか物語」では特にニューヨークの夜の女を扱ったものが好きである。(「夜の女」、「ちゃいなたうんの記」など)。
 荷風の描く娼婦たちをみていると、社会の下層で、生活のためとはいえ、本能のままに蠢(うごめ)く生き物をみているようだ。荷風が先生といって尊敬しているモーパッサンの「テリエ館」を思わず思い出してしまう。ところが不思議である。荷風の描く娼婦たちの世界は暗くないのである。逆に人間の強い生命力を感じてしまう。
 「あめりか物語」全般を通していえることだが、やはり荷風は天性の詩人であると思う。それは何もボードレールやヴェルレーヌの詩が引用されているからではない。荷風の目が詩人のそれなのである。理想だとか希望だとかといったフィルターを通して現実を見ていない。冷徹に現実を直視している。荷風の目から見るとアメリカは夢の国ではない。一歩間違えれば気違いになって一生瘋癲(ふうてん)病院にいて、最後は死ぬはめになる恐ろしい世界なのである。女のひもになって身を持ち崩す男たちもたくさんいる。だが、そのアメリカは荷風がこよなく愛す自由の国なのである。
 <余は都会の夜を愛し候。燦燦たる都会の巷を愛し候>「夜あるき」
 荷風はこよなく都会の夜を愛した。ニューヨークの夜は荷風にとって、正常に呼吸のできる場なのである。詩人が酔って、感性のままに都会の街を歩くように荷風も都会の街を歩いたのだ。「断腸亭日乗」を読むと、荷風が死ぬ直前まで、銀座に通っていたことがわかる。荷風ほど銀座を愛した文士を私は知らない。
 荷風は感性の人と述べたけれども、その底辺には広くそして深い教養は横たわっている。私は荷風を読むたびに教養の素晴らしさを思う。トルストイ、ツルゲーネフなどを引用して、<歴史を動かすのは1人の偉大な英雄ではなく名もない民衆である>などとも述べている。荷風は社会主義者でも何でもない。荷風にとって何々主義はまったく縁のないものである。感性で動きながら、荷風はじっと冷静に人や歴史を見ているのである。

 三味線も落語もプロ級(実際荷風は落語家を目指した)で、傍らでは漢詩を自ら作るほど漢文に造詣が深く、フランス語の翻訳もするし、江戸文化も熟知している。その教養の広さ、深さは鴎外を髣髴(ほうふつ)とさせる。
 滅茶苦茶に教養があり、そして自由奔放に生き、そして権威には絶対に屈しない。うらやましい限りの人生である。

 考えてみれば、江藤淳の生き方と荷風の生き方とはまったく別なものである。江藤淳は文学のエリート街道をまっしぐらに、表舞台を歩き続けた。荷風は表舞台を嫌った。でも、江藤淳が荷風を好んだのがわかる気がする。荷風は江藤淳にとって何ものにも代えがたい憩いの場だったのではなかろうか。

(写真は、現在の銀座4丁目です。)

 
永井荷風「墨東綺譚(ぼくとうきたん)」を読む
両国橋からみた隅田川

 以前、日本に来ている中国人の女性から日本の作家の小説で一番おすすめの作品は何かと問われたとき、私はすかさず永井荷風の「墨東綺譚」と答えた。答えたあと、「墨東綺譚」を女性にすすめてよいのかと、すこし後悔した。しかし、外国人に日本を知ってもらうのはこの作品が一番よいと思い直した。
 荷風の夥しい小説・随筆の中で、燦然(さんぜん)と輝いているのが「墨東綺譚」である。私は明治から昭和の文学の中で好きな小説を5つあげろといわれたら、まず「墨東綺譚」をあげる。

 「墨東綺譚」は昭和11年に書かれた。昭和11年といえば2・26事件があり、翌年には日中戦争が始まるという時期である。世の中は戦争へと向かい、世相は暗く、そして陰険なものになりつつあった。
 「墨東綺譚」の内容は全く戦争と関係ない。一般の人があまり出入りしない玉の井の私娼街が舞台である。墨東は隅田川の東という意味である。
 荷風とおぼしき作家の大江匡(おおえただす。荷風の家系をたどると鎌倉時代の大江広元にいきつく。永井家は名門なのである)は、麻布に住んでいるが、夕方以降になると隣の家のラジオがうるさくて、夕食後散歩に出た。
 浅草に向かい、古本屋に寄って浅草公園にいくと、警官に職務質問される。その後、玉の井に向かう。玉の井の風景描写が見事である。時は6月の梅雨時である。昼は晴れていたが、俄かに天気がくずれ雨が降り出した。まさに驟雨(しゅうう)であった。用心のよい大江は傘をいつも持ち歩いており、傘を開く。そのとき、若い女が「ちょいと私も傘にいれて」と寄ってくる。この女が雪子である。
 この驟雨の中の大江と雪子の出会いの場面は大変印象深い。私が敬愛してやまない吉行淳之介の「驟雨」にも同じような場面がでてくる。私は吉行の本を読むとき、しばしば吉行と荷風を重ねて見た気がする。
 物語の期間は大江が雪子と出会ってから別れるまでの3ヶ月である。雪子は玉の井の私娼であった。大江は雪子の馴染みとなり毎日のように雪子のいる家に通う。雪子は美人で、陽気であった。
 大江が雪子の許へと行くのをやめようと思ったのは、雪子が大江に結婚してくれと頼んだからだ。と同時に雪子は病気になり、結局会わなくなるようになった。

 「墨東綺譚」の描く世界は私にはたいへんなつかしいものである。私は生まれてから現在まで一度も玉の井に行ったことがない。それでも荷風の描く玉の井がなつかしいのである。荷風が描く玉の井には時間がとまったように昔そのままの風流・風情がたゆたっている。汚い溝(どぶ)と蚊の鳴き声と狭い路地、そこには明治そして江戸の原風景がある。いつも島田か丸髷にしか結っていない雪子は無言の芸術家のように過去を呼び返してくれる。

 私は荷風の作品を読むといつもなつかしさが込み上げてくる。このなつかしさは何だろうといつも思う。小さい頃、母親に背負られたなつかしさみたいなものかもしれない。なつかしさは親しみに通ずる。私はこの「名作を読む」に「私の荷風」という副題をつけたいくらいだ。
 荷風は孤高を守り、徒党をくまず、飄々(ひょうひょう)として生き抜いた。争いごとには全く無関心であった。戦争中、出版の見込みのない明治・江戸を偲ぶ作品を書いた。
 荷風は仲のよかった風流人の帚葉翁(そうようおう)と銀座の喫茶店で香り豊かなコーヒーを味わいながら昭和11年現在の世相について語りあう。そのとき、帚葉翁は次のように言う。
 <……。この現象には現代固有の特徴があります。それは個人めいめいに、他人よりも自分の方が優れているという事を人にも思わせ、また自分でもそう信じたいと思っている──その心持です。優越を感じたいと思っている慾望です。明治時代に成長したわたくしにはこの心持がない。あったところで非常に少ないのです。これが大正時代に成長した現代人と、われわれの違うところですよ。>
 私は荷風に接するたびにいつも思う。現代は明治時代よりはたして幸福な時代なのかと。

(写真は、両国橋からみた隅田川です。)

永井荷風「つゆのあとさき」を読む

 私は世界文学の中で好きな作家を挙げろといわれたらまずモーパッサンを挙げる。モーパッサンの風俗描写に潜む諧謔さ・機知がたまらなく好きである。初めて「脂肪の塊」を読んだときの感激は未だに忘れない。
 モーパッサンは自然主義文学の作家といわれている。明治期に自然主義文学は日本に輸入された。その自然主義文学の大御所はゾラである。明治のある文学者たちはゾラを読み、日本に自然主義文学を根付かせようとした。
 ゾラに夢中になった文学者の1人が永井荷風である。荷風はゾラに惚れこんだがやがてモーパッサンに傾倒する。荷風のモーパッサンを敬う念の強いことは有名である。荷風がパリにいったとき、彼はその地にあるモーパッサンの銅像に何度もおまいりしたという。荷風はモーパッサンのことを先生と呼んでいた。

 荷風の「つゆのあとさき」は傑作である。その風俗描写の巧みさは先生のモーパッサンを超えているかもしれない。この作品は昭和初期に書かれたものである。カフェーというバーとキャバレーをたして2で割ったような酒場の女給と、女給を求めに来る男たちの生態を赤裸々に描いている。登場人物はほとんど本能をむき出しにした男と女たちである。微に入り細を穿って男と女の心理を見事に描いている。
 荷風は谷崎潤一郎らと一緒くたにされて耽美派と呼ばれている。私は荷風は耽美派だとは思わない。かなり現実派だと思う。荷風は現実を直視する作家であり、その現実の中に人間の哀しさ・愚かさ・低俗さ・滑稽さそして崇高さを見て取る。

 「つゆのあとさき」はカフェーの女給君江が主人公の物語である。君江はまだ20歳である。関東の田舎から家出同然で上京してきた。幼ななじみの京子をたよってきたのである。京子は芸者の道を選び、君江は銀座のカフェーの女給になった。
 君江には清岡進というパトロンがいた。清岡は30代半ばで通俗小説を書く流行作家である。もともとは純粋なる文学を目指していたが、江戸の戯作の1つを現代版にアレンジした小説が思わぬ人気を博して俄かに流行作家となり金持ちになった。
 清岡は籍は入っていないが妻同然の鶴子という女性と同居していた。鶴子は元人妻で、若い清岡と不倫をした末離縁されて清岡と暮らすようになった。鶴子は儒教的倫理感が強く、そして教養・知性に溢れた人である。なぜこのような女性が清岡と不倫したのかというと、清岡はそれほどまでに純粋だったからである。
 清岡には優れた作品を書こうという芸術家的欲求はなくなり、頭の中は新聞社・雑誌社に原稿を売り込むことと女のことしかなかった。清岡は俗の中の俗物として描かれている。清岡はいろいろと女遊びをするのだが、気に病んでいることがある。それは愛人である君江の浮気のことである。清岡は君江の心が全面的に自分に向いていないことに不満を抱いていた。 
 君江は貞節などまったくなく、いい寄ってくる男とは平気で同衾するような女である。性に対しては奔放であり、淫猥さはすさまじいものである。清岡は君江にたいして可愛さ余って憎さ100倍の心理状態になり、君江を苛めようとする。君江は清岡の仕打ちを清岡の書生から知らされ、女給をやめて田舎に帰ろうかと思う。
 そんなとき君江は偶然何年振りかで京子の元旦那の川島に出会う。川島は刑務所から出てきたばかりで落ちぶれていた。君江はなつかしさのあまり川島を自分の下宿に連れてくる。2人は酒を飲み、そして君江は酔いつぶれて寝てしまった。目を覚ましたとき、川島はいなかった。枕元には川島の手紙がおいてあった。それは川島の遺書であった。物語はここで終わる。

 「つゆのあとさき」には肉と欲の塊の男と女が犇きあう。そんな中で鶴子という女性が異彩を放っている。鶴子は君江の対極的にある女性である。この作品の影の主人公といってよい。鶴子は荷風の理想としていた女性だったのだろうか。

 
作文道場永井荷風 (ながい かふう)
1879年(明治12年)12月3日ー1959年(昭和34年)4月30日。
本名は壯吉(そうきち)。
号は断腸亭主人、金阜山人。
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