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読書感想文
 
森鴎外「護持院原の敵討(ごじいんがはらのかたきうち)」を読む

 江戸時代、敵討ちは武士にとって絶対に果たさなければならない義務であった。父親が罪もなく殺されたとき、その息子は父親を殺した敵を成敗しなければならなかった。もし、息子が敵討ちをしなければ家は潰されるのである。
 武士の世界で、一番重んじられていたのは名誉である。武士は名誉を傷つけられたら生きてはいられなかった。恥じをさらして生きることは、武士には考えられないことであった。
 見事、敵討ちを成し遂げたときは、回りから称賛されるが、敵討ちには悲劇が伴った。敵を討ちに旅立った息子は、敵を討ち果たすまで国に帰れなかった。十年も二十年もかかって敵を討ちとった例もあるし、生涯、敵を見付けられなかった例もある。敵討ちは美談であると同時に悲劇にもなるため、小説や演劇の題材になった。
 井原西鶴は「武家義理物語」で多くの敵討ちの話をかいているし、近松門左衛門もかいている。「忠臣蔵」の例を出すまでもなく歌舞伎では敵討ちの話は重要なテーマである。 おもしろいのは、現代の人から見ると、敵討ちは非人間的なことの最たるもののように思えるが、江戸時代の人にとって、敵討ちは崇高な行動だと認識されていたことである。もしかしたら、敵討ちは時代に関係なく、日本人の心を満足させる義挙なのかもしれない。「忠臣蔵」は江戸時代以降、現在でも日本人の心を揺さぶっている。
 明治の大作家であり、知性の塊といわれた森鴎外ははたして、敵討ちをどうとらえていたのであろうか。
 鴎外は晩年に達すると、多くの歴史小説を書いた。あるものは史伝といわれる。鴎外の歴史小説は感情を抑えて、事実をリアルに描くところに魅力がある。いわゆる変な先入観がないのである。この鴎外が敵討ちの小説をかいた。「護持院原の敵討」である。
 この小説で、鴎外は敵を討つ男たちの動きを淡々と描いている。淡々と描いているからこそ、敵討ちという行動の重みが伝わってくる。私はこの小説は敵討ちを扱った小説の最高傑作の1つだと思っている。

 播磨の国姫路の城主酒井雅楽頭忠実(うたのかみただみつ)の上屋敷で、大金(おおかね)奉行山本三右衛門(さんえもん)が何者かに襲われ、そして死んだ。犯人は亀蔵という表小使であった。
亀蔵は二十歳になるかならないかの若者であった。三右衛門には、妻と息子、娘が一人ずついた。娘はりよといった。息子は宇平といい、当然のことながら、父親の敵を討たねばならなかった。三右衛門には山本九郎右衛門という九つちがいの実弟がいた。宇平と九郎右衛門が敵討ちの旅に出ることになった。ところが、二人は亀蔵の顔を知らなかった。天は彼らに味方した。亀蔵と同じ表小使をしたことのある文吉という男が二人のもとを訪ね、助太刀をすることになった。文吉は亀蔵の顔を知っていた。
 三人は江戸を出発して、高崎を皮切りに、八王子・甲府・上諏訪・高田・長岡・富山・飛騨の高山・美濃の金山・名古屋・四日市・松坂と回った。松坂に来るまでは、亀蔵の影すら見つけることができなかったが、松坂で、亀蔵は熊野の漁師の息子であることがわかった。亀蔵は江戸で悪事を働いて熊野に帰ってきたが、誰からも相手にされず、再びどこかへ行ったということである。
 その後、三人は大阪に出て、それから岡山に行き、四国に渡り、そして九州へと向かった。三人は西日本のほとんどを歩き回ったが、亀蔵を見付けることはできなかった。その間に、宇平は精神をおかしくして、九郎右衛門と文吉から離れた。
 宇平がいなくなったあと、文吉が玉造豊空稲荷(たまつくりほうくういなり)の神主から尋ね人は東国の繁華な土地にいるという御託宣を受け取った。二人は江戸に向かい、そして亀蔵を見付けた。亀蔵は偽名で本名を虎蔵といった。
 護持院原で、九郎右衛門とりよは見事に敵を討ちとった。

 鴎外の緊張感のある文章が武士の生きざまをするどく衝いている。

作文道場森鴎外(もりおうがい)
1862年1月19日(旧暦)(文久2年)2月17日ー1922年(大正11年)7月9日。本名、林太郎(りんたろう)。
石見国津和野(現・島根県津和野町)出身、東京帝国大学医学部卒。
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