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読書感想文
 
森鴎外「大塩平八郎(おおしおへいはちろう)」を読む

 私が学生の頃、森鴎外の歴史小説を読んだとき、よく理解できなかったせいか、あまりおもしろいとは思わなかった。理解できなかったことは措いといて、おもしろくなかったのは鴎外の歴史小説が事実を淡々と伝えているに過ぎないと感じたからである。作中人物とりわけ主人公の内面的な葛藤みたいなものを描写するということがほとんどないのである。若い私はやはりドストエフスキーや漱石の作品のように心の葛藤を告白するような小説を求めていたのかもしれない。
 ところが、年齢を重ねるうちに鴎外の歴史小説が実に味わい深いものになってきた。私が鴎外の歴史小説を本当に堪能できるようになったのは40も半ばを過ぎてからである。
 鴎外の歴史小説の特徴は綿密な事実の調査のもと、その事実を客観的に微に入り細を穿って記述することにある。この延長線上に「渋江抽斎」などの史伝といわれる作品が続くと思われる。事実を綿密に描写することがいかに豊なイメージを読者に喚起せしめることか。私は優れた歴史小説の書き方の極意を教わったような気がした。
 主観性を排して、事実を綿密に述べていく歴史小説の代表作が「大塩平八郎」である。 大塩平八郎は歴史上有名な人物である。天保の飢饉のとき、飢えに苦しむ大阪の町民を救うために公儀に反旗を翻して大商人の屋敷の打ち壊しを行った元大阪町奉行所役人である。大塩平八郎の乱として歴史の教科書にはかならず載っている。
 大塩平八郎はいろいろと解釈されているが、その1つが大塩が陽明学者であるということだ。陽明学者であるがために大塩は大阪の町奉行の非人道的な政策に対して動かざるを得なかったというのがある意味通説になっている。
 鴎外の「大塩平八郎」には大塩が陽明学者であることは一切触れられていない。この作品は大塩が乱を起こした天保のある1日の大塩並びに大阪東西奉行所の動きを暁から時間の経過とともに記述しているのである。

 「大塩平八郎」は天保8年2月19日の明け方、大阪西町奉行所の門を誰かがたたくことから始まる。その誰かとは大塩に関係したものの息子で、大塩が乱を起こすことを示唆したその息子の父の手紙を渡しにきたのである。
 江戸に南北町奉行所があるように大阪には、東西の町奉行所がある。東町奉行は跡部良弼(よしすけ)、西町奉行は堀戸利堅である。西町奉行の堀はつい先日も大塩の一味が密告したことから、うすうす大塩の一党がおかしな行動をすることはわかっていた。
 その2月19日の明け方から、大阪東西町奉行は連携して、大塩の一党を捕縛するために動きだした。奉行所の連中が大塩の屋敷(そこで大塩は洗心洞という塾を開いていた)を急襲したとき、大塩の一党はすでに町中に繰り出していた。大塩の一党の中心人物たちは総勢20人ぐらいで、大商人たちの屋敷を次々襲い、蔵を打ち壊し、米・金などを奪い、町民たちに振舞った。
 奉行所の方も黙って見ていない。鉄砲隊などを組織して徐徐に大塩の一党を追い詰め、最後は大塩父子2人きりが逃げ延びた。大塩父子は奈良に落ち延び、そこで僧形になり、再び大阪に戻ってきて、ある商人の家に身をかくす。しかし、奉行所に知られるところとなり、役人がその商家に大塩を捕らえにきたときは、大塩はすでに息子を殺し、そして屋敷に火を付け、自殺した。

 「大塩平八郎」の全体の流れは私たちの知っている歴史的事実から逸脱はしていない。しかし、詳細を極めた大塩の動きを記したこの小説を読むと、大塩の内面にある決意がひしひしと伝わってくる。それは<人間は悪とわかっていても動かなければならないときがある>というものである。
 天保の飢饉のとき、大阪の町民は塗炭の苦しみに会った。それに反して大商人は米の値上げを画策し、町奉行は不正ばかりを行い、幕府は無策であった。人が苦しむのを見て、大塩は動かざるを得なかったのであろう。大塩の止むに止まれぬ決意が「大塩平八郎」の行間から滲みでている。

森鴎外「青年(せいねん)」を読む

 人は何で生きるのか。この単純にして意味深い疑問を呈するのは若者の1つの特権であろう。年をとってくると、人は何で生きるかを考える以前に生きることに集中して、人生の意味を考える余裕はないし、考えることそのものに意味を置かなくなる。
 ところが若い人は違う。たくさんの若い人は何で生きるかを真面目に考えてきたのだ。とくに、これから西洋諸国の仲間入りをはたそうと近代化を推し進める日露戦争後の知的な若者たちは人は何で生きるかを真剣に考えたに違いない。
 文学の1つの役割は人は何で生きるかという問題の提起である。その問題の答えはいくらでも見つけられるし、また見つけられないかもしれないが、いずれにしても答えは文学の本質ではない。問題を提起して悩むところを描くことに文学の1つの形があるように思われる。
 そんな悩み多い青年の姿を描いたのが森鴎外の「青年」である。「青年」は夏目漱石の「三四郎」に刺激されて書かれたものといわれている。「三四郎」は九州の田舎から上京した東京帝国大学生が都会の空気に触れて、様々な人と交流しながら生きることの意味を追求していく青春小説であり、「青年」もどこか似たようなところがある。

 「青年」の主人公は小泉純一である。純一はY県(山口県であろう)から東京へ来た。純一は小説を書くために上京してきたのである。中学時代からフランス語を勉強した。中学を卒業してまもなくいよいよ小説家になる決心をしたのである。純一の家は裕福で、純一は生活に困ることはなかった。純一は上野の初音(はつね)町に下宿をした。
 物語は純一が10月末に上京して、翌年の正月元旦までの約2ヶ月間に起こった出来事を扱っている。純一は上京した日の翌日、作家の大石路花を訪問するが、路花を皮切りにいろいろな人間と交わっていく。その橋渡しをしたのが中学のときの同級生であった瀬戸である。瀬戸は東京美術学校の生徒である。
 純一が一番仲良くなるのが大村荘之助である。大村は医科大学の学生で文学に造詣が深い。大村は木下杢太郎がモデルである。木下は医者でそして詩人であった。純一は大村からフランス語の文献について教えてもらったりしたが、よく2人で文学・思想・哲学・人生などについて議論を交わした。
 純一と大村との議論は理想論も踏まえた高尚なものであるが、「青年」にはもう1つ理想とは対極的なテーマが用意されている。すなわち現実である。
 純一は当然のことながら女性に関心をもつ。若いからなおさらである。純一は3人の女性に心を惹かれた。お雪・おちゃら・坂井夫人である。お雪はまだ子供といってよく、おちゃらは芸者で、坂井夫人は高名な学者の未亡人である。
 純一は坂井夫人に恋心を抱くようになる。夫人はまだ若く美人である。家は純一の家からさほど遠くないところにある。純一は観劇しているとき、偶然夫人と知り合いになる。夫人は純一に関心を示す。純一は夫人にすすめられるままに夫人の家にフランスの本を借りにいった。
 純一の頭の中を夫人が占めるようになったとき、純一は夫人から年末・年始は箱根にいるから来ないかと誘われる。純一は年末、孤独を感じ、いてもたってもいられず箱根へと向かう。
 純一が箱根で目にしたのが画家の岡村を連れた夫人であった。純一はいささかショックを受け、そして夫人に対する気持が変化した。最終的に純一は坂井夫人は単なる肉の塊であると結論付ける。
坂井夫人と岡村は純一にとって現実であったのだ。そこには人生の理想はなかった。
 純一は無性に小説が書きたくなり、元旦に東京へと帰る。そこで物語は終わる。

 若い人の悩みはほとんどが異性のことである。知的な人になればなるほど理想に燃え、肉欲に悩むものである。「青年」は、理想と現実のはざ間で悩む青年の姿を格調高く描いた名作である。

森鴎外「桟橋」を読む

 1858年の日米通商条約締結の翌年、横浜は開港した。2009年に横浜は開港150周年を迎えた。開港前まで、横浜は単なる寒村に過ぎなかったが、開港してからは急速に発展していった。
 横浜は日本の表玄関となり、西洋に行ったり、西洋から来たりするにはかならず横浜を経由しなければならなかった。横浜の発展は日本の発展そのものであった。西洋の文物を吸収するために、横浜はフル稼働した。
 明治になって、日本人は自由に海外に行くことができた。ただし、西洋に行くには多額の費用がかかった。そのため、西洋に行く人はごく一部の人たちに限られていた。その中には、国の費用で西洋に留学する人たちがたくさん含まれていた。
 夏目漱石は文部省からイギリスに派遣された留学生であり、森鴎外は陸軍省からドイツに派遣された留学生であった。2人とも横浜港から出発している。漱石・鴎外だけでなく、留学生のほとんどは国から派遣されたものたちである。留学生たちは西洋で勉学に励み、日本に帰ってくると、洋行帰りとして大変重宝された。そして、日本の各界の指導者としての身分を保証された。漱石はイギリスから帰国すると、第一高等学校・東京帝国大学で教鞭をとり、将来は東京帝国大学の教授を約束された。鴎外も日本に帰ると、陸軍においてとんとん拍子に出世した。
 東京から洋行する場合には、まず、新橋から汽車で横浜駅に行き、そして横浜駅から横浜港へと向かうのである。見送りの人も一緒に汽車に乗り、横浜港まで行く。横浜港の桟橋は見送る人たちでごった返した。何しろ現在と違って、一旦、洋行すると最低何ヶ月も会えないのであるから、長い別れを惜しむのである。桟橋は長く、何隻もの船が接岸することができた。

 鴎外の「桟橋」は横浜港の桟橋で、夫を見送る夫人の目を通して、桟橋の風景を描いた珠玉の短編である。
 夫は一昨年に文科大学を卒業した伯爵である。大学を卒業するとすぐに結婚し、まもなくして夫人は玉のような娘を生んだ。そして今も、2人目の子がお腹に宿っている。
 夫は昨年の暮れに式部官になり、官職を帯びてロンドンへと旅立つことになった。伯爵と夫人は今朝、新橋から一緒に汽車に乗って横浜駅に着き、それから人力車で横浜港まで来たのである。夫には同行の者がいた。背の高い子爵である。2人でロンドンに行くのである。
 桟橋に着くと、夫は夫人を無視するように、子爵と連れ立ってどんどんと先に歩き、桟橋と舷(ふなべり)に渡してある梯子を渡ってさっさと船に乗り込んだ。桟橋には大勢の人がいた。ほとんどが伯爵を見送りに来た人たちであった。
 夫人も夫に遅れて梯子を渡り、夫の部屋に向かった。夫の部屋には2つのベッドが置かれていた。この部屋で長いこと伯爵と子爵が寝泊りするのである。
 船はフランスの船である。船長らしき男が来て、夫をサロンに案内した。サロンは広く美しかった。給仕の男がたくさん杯を出して、それにシャンパンを注ぎ、サロンにいる人たちにふるまった。また、菓子も配った。
 鐘がなったので、夫人は船から桟橋に戻った。しばらくして船は動き出した。夫人は舷に立っている夫を見つめていた。船を追いかけるように走り出す人もいた。
 白いハンカチを振る人もいたが、夫人は恥ずかしくて、そんな真似はできなかった。船は遠ざかった。

 鴎外が洋行するときもこんな状況だったのであろうか。何でもない見送りの描写ではあるが、何か深いものを感じる。短い時間の見送りがかえって長い時間を感じさせる。
 明治時代の洋行とはたいへん重々しいものだと感じさせる短編である。

   
 
作文道場森鴎外(もりおうがい)
1862年1月19日(旧暦)(文久2年)2月17日ー1922年(大正11年)7月9日。本名、林太郎(りんたろう)。
石見国津和野(現・島根県津和野町)出身、東京帝国大学医学部卒。
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