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読書感想文
 
森鴎外「山椒大夫(さんしょうだゆう)」を読む

 森鴎外と言えば「山椒大夫」と思い浮かぶくらい「山椒大夫」は有名な小説である。多くの人は子供の頃、聞くか読むかしてその内容は知っているに違いない。
 「山椒大夫」は人買の話である。「山椒大夫」伝説は日本中いたるところにあり、昔の日本では本当に人買が行われていたことが窺える。実際に人買はあったらしい。
 観阿弥の作品に「自然居士(じねんこじ)」と言う能がある。この能は自然居士という少年僧が人買に身を売った幼い者を救う話である。自然居士は最後に舞を舞って人買を説得する。
 室町時代までは人買は商売として存在していたのかもしれない。

 「山椒大夫」は格調高くやさしい文章で綴られている。最高の名文である。
 この作品は最初読むと哀しくて、親子そして姉弟の絆の強さのすばらしさを謳った物語のように思える。しかし、何度となく読むうちに勇気を与えてくれる物語であることにも気付かされる。

 「山椒大夫」は次の文章でもって始まる。

<越後の春日(かすが)を経て今津へ出る道を、珍しい旅人の一群が歩いている。母は三十歳をこえたばかりの女で、二人の子供を連れている。姉は十四、弟は十二である。>

 母親とその2人の子供と女中の4人が旅をしている。信夫郡岩代(現在の福島県北部)から父親をたずねに西国へと向かう途中である。姉と弟の名はそれぞれ安寿と厨子王である。父親は厨子王が生れると筑紫へと行きそれきり帰って来ないのである。
 4人は越後の国のとあるところに来た。その土地には1軒の宿屋もなかった。そこには人買が出没していて、人買が泊まらないようにするためである。
 4人はやさしく言い寄ってきた40歳くらいの男に連れられて男の家に行きそこに泊まった。男は人買を手引きするものであった。
 4人はまんまとだまされて、人買に売られてしまい、母親と女中は佐渡に行く船に、子供2人は南に行く舟に乗せられた。厨子王の<お母あ様、お母あ様>と悲しく叫ぶ声が聞こえてきそうである。もうこれで別れだと悟った母親は子供2人に、安寿は守本尊の地蔵様、厨子王は父親からもらった護刀(まもりがたな)を大切にするように言った。
 女中は海に飛び込んだ。母親も飛び込もうとしたが阻止された。安寿と厨子王は丹後の国へ連れていかれ最終的にその土地で勢力のある山椒大夫の奴として売られた。
 安寿と厨子王の2人の姉弟は毎日つらい仕事をさせられそして母親のことを片時も忘れなかった。そんな日々の中、安寿は一計を思いつき、厨子王を山椒大夫の許から逃げ出させた。都へ向かい、父親を探し出して、そして母親と私を助けにきてくれと指示した。厨子王が無事逃げ出すと安寿は海に飛び込んだ。
 厨子王は国分寺の律師に助けられ、僧となって都へと行く。そこで関白師実(もろざね)と会う。厨子王は姉からもらった守本尊の地蔵様を師実に見せた。その地蔵様を見て、師実は厨子王の父親が誰であるかを知った。
 厨子王の家は由緒ある家柄で、父親は国守の次の地位にある人であった。国守の失脚に伴ない筑紫に左遷されたのである。すでに亡くなっていた。
厨子王は元服して名を正道とし、師実の支援もあって丹後の国守になった。国守になって最初に行った政(まつりごと)が人の売買を禁じたことであった。それから正道は母親を探しに佐渡に行った。母親はなかなか見つからなかった。ところが大きな百姓家の前にぼろをまとい髪を振り乱した盲目の女が雀の来るのを追い返していた。
  この女のつぶやいている詞(ことば)を聞いて、正道は身が震えた。

<安寿恋しや、ほうやれほ。
  厨子王恋しや、ほうやれほ。
  鳥も生(しょう)あるものなれば、
  疾(と)う疾う逃げよ、逐(お)わずとも。>

 その女が母親であった。正道はその女に近寄り、女の前にうつぶした。そのとき、守本尊を額に押し当てた。
  母親の目が開いた。そして2人は抱き合った。

 この物語の影の主役は守本尊の地蔵様であろう。地蔵様はつねに厨子王一家を見守っていたのである。人間ではどうにもならない現実を超えた力というものの存在を鴎外は美しくそして哀しく描いているのである。 

森鴎外「寒山拾得(かんざんじっとく)」を読む

 森鴎外はやさしい父親であった。鴎外は家父長的で、家というものを大事にした人だ。娘たちの教育にも熱心で、彼女たちにいろいろな話をしてあげた。鴎外の「寒山拾得」は娘たちにしてあげた話をもとにできた短編である。
 寒山拾得についてはちらほらと聞いたりするが、実際に寒山拾得とは何なのかと問われると私は窮してしまう。鴎外の娘たちも名前ぐらいは知っていたのだろう。
 新聞に寒山詩の本の広告が出ていたので、娘たちが鴎外にその本を買ってくれとせがんだ。鴎外たちはお前たちには難しいと言って断った。すると、娘たちがその本にはどんなことが書かれているのかときいてきたので、鴎外は寒山拾得について説明をした。
 私は大学時代に「寒山拾得」を読んだが皆目わからなかった。その後、ある本で、三島由紀夫が「寒山拾得」をたいへん評価しているというのを読んで「寒山拾得」が気になりだした。また、平安時代の天台宗の僧成尋(じょうじん)が入宋したときの日記を読んだとき、成尋が天台山の国清寺で修行し、その国清寺に寒山拾得なる僧がいたことを知った。私は寒山拾得なるものに興味を覚え、「寒山拾得」を繰り返し読むようになった。
 「寒山拾得」がおもしろく読めるようになったのはつい最近である。何とも深く、そして含蓄のある短編である。鴎外が娘たちを納得させるように説明できなかったのも頷ける。

 「寒山拾得」の中心人物は4人である。
  時は唐の貞観の頃、閭丘胤(ろきゅういん)、という官吏がいた。閭は台州の主簿(しゅぼ、県知事みたいなもの)になった。閭は科挙に応ずるために経書をさんざんに勉強した。閭が長安から任地の台州に旅立とうとしたとき、猛烈な頭痛が彼を襲った。旅立ちの日を延ばさなくてはと思い悩んでいたとき、女中が家の門に乞食坊主が来たことを伝えた。この乞食坊主が豊干(ぶかん)である。豊干は頭痛を直してあげようと言った。豊干は水をもってこさせ、水を口に含みそしてふっと閭の頭に吹きかけた。閭の頭痛はきれいになくなった。
 閭は豊干が天台国清寺にいたことがわかった。閭は豊干に台州には会ってためになるような人がいるかを尋ねた。豊干は国清寺の拾得と寒山を紹介した。拾得は普賢であり、寒山は文殊であるとも言った。
 閭は台州に赴き、国清寺を訪れた。道翹(どうぎょう)という僧が閭を案内してくれた。閭は拾得と寒山に会うことになる。拾得は豊干が松林の中から拾ってきた捨て子であり、そのときは厨(くりや)で僧たちの食器を洗っていた。
 寒山は国清寺の西方にある石窟に住んでいる。拾得が食器を洗ったとき、残された飯や菜を竹の筒に入れておくと、寒山がそれをもらいにくるという。
 閭は2人がいるという厨に入った。閭は入口から一番遠い竈(かまど)の前を見ると、そこに2人の僧が蹲(うずくま)って火にあたっているのが見えた。どちらもやせてみすぼらしかった。その2人が寒山と拾得であった。閭は2人のもとへ近づき、恭(うやうや)しく礼をして、自己紹介をした。
  2人は同時に閭を見た。それから2人で顔を見合わせて原の底からこみ上げてくるような笑い声をだした。そして、一緒になって逃げるように厨を出ていった。そのとき<豊干がしゃべったな>と言ったのが聞こえた。
 道翹は真っ青な顔をして立ちすくんだ。

 寒山と拾得とは何ものなのか。拾得は普賢、寒山は文殊というが、2人は隠者なのであろう。隠者とは老荘思想を身をもって体現している人である。仙人ともよばれている人たちでもある。
 この短い話の中に、中国における生きる上での主要な思想である儒教・仏教・道教を象徴する3種類の人間たちが登場する。ろが儒教であり、豊干が仏教であり、そして寒山と拾得が道教である。
  なぜ、寒山と拾得は閭を見て、笑いころげて逃げ出したのであろうか。それは、閭の住む世界は俗の世界であり、寒山と拾得の住む世界とは相容れないからである。俗は仙人にぴしゃっと否定された格好である。
 官吏である閭が2人の仙人によって笑い飛ばされた。ここに鴎外の深い思いが存在するようである。

森鴎外「安井夫人(やすいふじん)」を読む

 衝撃的な内容ではないのだが、1度読んだら終生心に残る短編というものはたくさん存在する。私にとってそのような短編の1つが森鴎外の「安井夫人」である。
 「安井夫人」は安井息軒とその妻お佐代のことを書いた短編である。内容はいたく平凡な内容であるが、私はこの作品を初めて読んだとき、いい知れぬ感動を覚えた。以来、つねにこの作品のことが気になり、何回となく読み返した。
 安井息軒とは江戸幕末の儒者である。大学者といってよい。宮崎飫肥(おび)藩出身で、江戸の昌平坂学問所で学問した人間である。飫肥藩並びに幕府で要職についたあと、江戸に塾を開いた。門弟は1000人を超えたといわれている。
 安井息軒は歴史上有名な儒者であるが、「安井夫人」は息軒のことを中心に書かれたわけではない。あくまでも息軒の妻お佐代が主人公の小説である。
 お佐代は何も特別なことをしたというわけではない。息軒の妻として甲斐甲斐しく夫のために尽くしたというだけである。ただ、お佐代が息軒の妻になる際、読む者の心を打つささやかな出来事があった。

 息軒の字は仲平という。仲平には1人の兄がおり、2人は父の影響で少年期から勉強に励んだ。2人は優秀な子供たちであったが、仲平は猿と綽名された。仲平は幼いときに疱瘡にかかり、その後遺症として顔中に痘痕(あばた)が残った。おまけに片目がつぶれていた。仲平は背が低く、回りからは不男(ぶおとこ)の典型だと思われていた。それに反して兄は眉目秀麗な美男子であった。
 仲平は学問がよくでき、幕府の昌平坂学問所で勉強して、藩の侍読(じどく、藩主に学問を教授する人のこと)にまで出世した。だが、30歳になっても嫁の来てがなかった。心配した父親は亡くなった妻の実家にいる20歳の娘すなわち仲平の従妹の豊に白羽の矢を立てた。彼女は年頃からいっても、また十人並みの器量であることからも仲平との結婚を了承してくれると思ったのである。父親は早速仲平の姉である自分の娘を使って、仲人役を勤めさした。
 豊は仲平の姉の申し出を言下に拒否した。ところが、仲平が嫁探しをしていると知った豊の妹のお佐代は自分の母親にぜひとも仲平の嫁になりたいと申し出た。これには回りのものが驚いた。お佐代はまだ16歳でたいへんな美人だったからである。
 仲平とお佐代は結婚した。結婚後、2人は江戸に住むようになった。安井家は食うに困ることはなかったが、本をたくさん買うので家計は決して楽ではなかった。妻のお佐代は着るもの、食べるもの、住むところ、すべてに渡って不満を言ったことがない。女中は使わず家事一切自分と娘とで賄った。
 お佐代は物質的にも精神的にも何物をも望まなかったのではないと鴎外はいう。お佐代は何かを望んでいたのである。当然、夫の出世は望んでいたであろうが、それ以外に何かを望んでいたであろうと推測するが、鴎外はそれが何かを語らない。
 お佐代は51歳でこの世を去った。仲平は明治9年78歳まで生きた。仲平は安井息軒として歴史に名をとどめる大学者としてこの世を去ったのである。

 私は「安井夫人」を読むたびに心の中が何か温かいもので満たされるのを感ずる。そして勇気付けられる。<男は顔でないよ>と鴎外が言っているような気がする。
 私は偶然安井息軒の墓に出会ったことがある。息軒は駒込の養源寺に眠っている。養源寺はあの「坊っちゃん」の清の墓のあるところである。私は清の墓を詣でようとしたとき、息軒の墓を発見したわけである。
 ちなみにお佐代の墓は東禅寺にあるらしい。なぜ、息軒とお佐代の墓が別々にあるかについては鴎外は言及していない。

 
作文道場森鴎外(もりおうがい)
1862年1月19日(旧暦)(文久2年)2月17日ー1922年(大正11年)7月9日。本名、林太郎(りんたろう)。
石見国津和野(現・島根県津和野町出身。東京帝国大学医学部卒。
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