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読書感想文
 
水村美苗 「日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で」を読む

 私はノーベル文学賞に対して長らく疑問に思っていることがある。日本人ノーベル文学賞受賞者である川端康成・大江健三郎の作品は素晴らしく、文学賞を受賞してもおかしいとは思わないが、彼らが受賞するならば、なぜ、谷崎潤一郎は受賞できなかったのであろうか。
 日本近代文学で、優れた国民文学を書いた作家を5人あげろといわれたら、私は、夏目漱石・森鴎外・谷崎潤一郎・永井荷風・志賀直哉をあげる。川端も大江も残念ながら5人の中には入らない。
 漱石の作品は英訳されているが、そんなに評判はよくない。おもしろくないというのが、その理由であるが、よくよく考えてみれば、「吾輩は猫である」にしても、「坊っちゃん」にしても、日本語で読むからおもしろいのであって、英訳されたら、日本語のおもしろさが消えてしまうであろうに。「吾輩は猫である」からおもしろいのであって、<I am a cat.>ではいかにもつまらない。主人公の猫を敵視する車屋の黒の抱腹絶倒する名セリフははたして英訳が可能であろうか。
谷崎の「細雪」は日本語の美しさを満喫させてくれるが、これも英訳されたら、味気ないものになるであろう。
 結論めいたことをいえば、ノーベル文学賞というのは、英訳されて西洋人に評価される作品を書いた作家に与えられる賞で、日本文学の最高傑作を書いた人に与えられる賞とはかなり違うものだということである。
 当たり前のようだが、日本文学とは日本語で書かれたものである。別の角度から見ると、日本語は優れた文学を書ける言語である。このことは当たり前のようで、実は当たり前でない。言葉はあるが、優れた文学をもたない言語圏は世界中たくさんあるからである。
 だが、だんだん日本語で優れた文学が書かれなくなってきているのである。作家の力量の問題ではなく、日本語に対する扱いの問題である。

 水村美苗の「日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で」は日本語の危機に対して痛快に警鐘を鳴らしている本である。あまりに的を射た指摘に私は思わず拍手を送りたい気になった。
 水村は日本人が英語を勉強することを決して非難はしていない。日本人が日本語に目を向けないのを非難している。水村は日本人が日本近代文学が読めなくなるのを強く憂慮し、国語教育を変革して、高校の国語の教科書に、樋口一葉を始めとして、日本近代文学の主だった作品を原文のまま載せて、生徒に何回も読ませるべきだと主張している。私もまったく同感である。
 水村は作家であり、日本語を愛し、日本語を真剣に残すべきだと主張する。その主張を支えているのが次のような日本語に対する思いである。

 人間をある人間たらしめるのは、国家でもなく、血でもなく、その人間が使う言葉である。日本人を日本人たらしめるのは、日本の国家でもなく、日本人の血でもなく、日本語なのである。それも、長い<書き言葉>の伝統をもった日本語なのである。(七章 英語教育と日本語教育)

 私は水村のこの日本語に対する思いに接したとき、ドーデの「最後の授業」を思いだした。ドイツに占領されてもフランス語さえ残れば、フランスはかならず復活するというのが「最後の授業」の主題である。これは日本語も同じである。英語ばかり追いかけて、日本語を忘れてしまったら、日本はなくなってしまうかもしれない。日本語とはとりもなおさず日本文化であると水村はいう。だからこそ、思春期の頃から、優れた日本語で書かれた日本近代文学を読まなくてはいけないのである。

 言葉は単なる伝達の手段ではない。言葉が失われたとき、文化も亡くなる。

作文道場水村美苗(みずむらみなえ)。
東京に生れる。12歳の時、父親の仕事の都合で家族と共にニューヨークに移り住む。アメリカになじめず、改造社版「現代日本文学全集」を読んで少女時代を過ごす。イエール大学および大学院で仏文学を専攻。のち創作の傍らプリンストン大学などで日本近代文学を教える。著書に、「続明暗」(1990年、芸術選奨文部大臣新人賞)、「私小説 from left to right」(1995年、野間文芸新人賞)、「本格小説」(2002年、読売文学賞)などがある。(筑摩書房「日本語が亡びるとき 英語の世紀の中で」から引用)。
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