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読書感想文
 
三島由紀夫「午後の曳航(えいこう)」を読む

 幕末から日本が近代化に進み始めるにあたって、横浜の果たした役割は重要だった。横浜は世界と繋ぐ日本の表玄関であった。誰しもが、西洋に行ったり、西洋から来たりするときには横浜を経由しなければならなかった。
 横浜は開港以来、外国人の多く住む異国情緒豊かな街であった。山下公園・海の見える丘公園・外人墓地などは現在でもエキゾチックな雰囲気を漂わせている。
 戦後が始まるにおいても横浜は重要な役割を演じた。1945年8月15日の終戦から15日たった8月30日、GHQ最高司令官のマッカーサーは、神奈川県の厚木海軍飛行場に降り立った。そこからマッカーサーは横浜のホテルニューグランドに行き、降伏文書の調印式までそのホテルで執務をした。日本占領の最高責任者の指示が横浜から発信されたわけである。
 横浜を舞台にした小説は多く書かれている。その1つが三島由紀夫の「午後の曳航」である。この作品は昭和38年に書き下ろされている。昭和38年といえば、三島が38歳のときであり、あの衝撃的な死の7年前である。
 三島という作家は死ぬまで死に拘った人である。<武士道とは死ぬことと見つけたり>という「葉隠れ」の言葉ではないが、三島は武士道を死ぬことと考えていた。三島にとって、武士道とは日本の文化・伝統そのものであった。
 思い出すのが、作家の埴谷雄高と三島の対談である。この対談には三島の死のイメージが顕著に表れている。三島は芸術家は実際に死ななければならないと力説し、埴谷は芸術家は死を啓示すればよいと反論した。
 三島は自殺した作家しか芸術家と認めなかったのであろうか。三島のあの死ははたして芸術家になるためのものであったのか。とにかく、三島とはつねに死と背中合わせに生きてきた作家であった。
 「午後の曳航」も死が色濃く反映されている。三島が作品の舞台を横浜にしたのは、横浜が遠い異国の地と直接に繋がっているイメージがあるからであろう。ただ、三島のいう遠い異国の地とは死の世界と同義であるように思われるが。

 黒田登は13歳の中学生である。登は頭がずば抜けてよく、成績は学校でトップクラスである。登の母親は黒田房子といい、33歳で美貌の持ち主である。父親はいない。父親は5年前に、登が8歳のときに死んでいる。房子は元町で外国の高級な服や装飾品を売る店を経営していた。この店の商品は東京の大手デパートにも負けないくらい品質がよく、得意客の中には今をときめく映画スターの女優もいた。
 登は夢見る少年である。海の彼方を見ては、海の向こうには栄光があると信じている。登は船について研究し、いつしか船に乗って、海の向こうまで栄光を探しに行こうと思っている。
 栄光は海からやって来た。塚崎竜二という船乗りがその栄光であった。竜二は二等航海士で、貨物船の不定期便に乗っていた。房子と登が横浜埠頭に竜二の乗る船を見学に来たとき、竜二が二人の案内役になった。暑い夏の日であった。その後、房子と竜二は急速に恋に落ちた。出会った翌日に二人は結ばれた。
 登は竜二が自慢であった。登は少年たちからなる秘密のグループの一員であった。グループのリーダーは首領と呼ばれた。登は首領以下の仲間に竜二のこと詳しく報告した。このグループは現在の汚れて腐った大人の社会に制裁を加えようとしていた。
 竜二は再び長い航海に出たが、数ヵ月後、日本に帰ってきたとき、竜二と房子は結婚することになった。結婚式場はホテルニューグランドであった。
 竜二は船乗りにすでに嫌気がさしており、船乗りをやめて房子の店を手伝うことになった。登にとって、竜二はもやは栄光ではなかった。
 登は竜二のことを首領に伝えた。首領は竜二を殺すことに決めた。そして、グループ全員がその計画を実行した。

 「午後の曳航」は横浜のことが詳しく描かれている。私は三島に横浜が何となく似合うと思った。

※:写真は、横浜のドックヤードです。このドッグには吉川英治が働いていました。

三島由紀夫「宴のあと(うたげのあと)」を読む

 三島由紀夫はいろいろな面をもった作家である。ときには熱狂的な愛国者になり、ときには哲学者ばりの観念家になり、あるときはスポーツマンになったりするし、役者にもなる。大の左翼嫌いかというと、左翼の大物作家たちと仲良く対談するし、1970年の全共闘時代には、安田講堂で東大全共闘の学生を前に演説をぶった。
 左翼か右翼かという低次元な分け方でいうと、三島は間違いなく右翼になるが、三島が発信する言葉は思想をはるかに超えて豊饒(ほうじょう)なものである。少しでも深く思考するものにとって、三島の言葉は傾聴に値するものであると私は確信している。
 私にとって三島という人は、さしずめつねに仮面をかぶっている人で、その仮面の下の素顔を見ることはできない。三島の数々の小説を読んで、三島の素顔を想像するだけにすぎない。
 学生の頃、三島の作品を貪るように読んだ。初めは三島の素顔を見たくて読み始めたのだが、いつしか小説のおもしろさに熱中し、私は三島の描く世界にどっぷりと漬かってしまった。三島の作品は観念的・知的でかつ俗っぽくエンターテイメント的である。他の純文学作家といわれている作家たちが絶対に書けない作品である。
 観念的かつ俗っぽい小説の典型が「宴のあと」である。この作品を初めて読んだとき、そのおもしろさに熱中し、そして三島の溢れんばかりの才能にただただ感心するばかりであった。
 この作品は有田八郎から元妻との私生活をモデルにしたものだとして、プライバシー侵害で訴えられたもので、世間をたいへん騒がせた。有田は戦前に大臣をつとめた外交官である。

 「宴のあと」の時代背景は昭和30年前後で、主人公は野口雄賢(ゆうけん)とその妻になる福沢かづである。  野口は戦前は外務大臣までつとめた大物政治家であったが、戦後は零落して今では革新党の顧問をしていた。年齢は70に近かった。野口は古風で、政治家というよりは学者タイプといったほうがよかった。保守党の政治家に見られるように脂ぎってはおらず、暇さえあれば書斎で本を読んでいた。妻は戦後まもなくに亡くした。
 この独身の野口が再婚することになった。相手は小石川の高級料亭雪後庵を経営する50過ぎの福沢かずであった。野口とかずは対極に位置する人間であった。野口はエリートコースを歩んできたのであり、かづは身一つで田舎から東京に上京し、体を張って汚いことも平気でやって生き抜き、高級料亭の女将に成り上がった女である。雪後庵のお得意は保守党の政治家で、保守党の黒幕といわれる永山元亀(げんき)がかづの後見人みたいであった。野口は観念家でありかづは情熱的かつ庶民的な行動家であった。
 野口は革新党の推薦で東京都知事に立候補することになった。かづはこれを知ると体中の血が滾(たぎ)り、すべてを投げ打ってでも夫を当選させようとした。実際、かづはすべての預金と雪後庵を担保にして借りた多額の金を選挙運動に投じた。東京の各地を精力的に訪れ、声を枯らして野口への支持を訴えた。野口よりもかづの方がより政治家みたいであった。
 かづの努力も虚しく、野口は選挙に敗れた。かづにはいいようのない虚脱感が生じたが、再び野心が起こった。選挙のために閉鎖し、借金返済のために売るてはずになっていた雪後庵を再建しようとしたのである。かづは誰あろうことか、保守党の元総理大臣に金の工面の相談に行ったのである。これが野口の聞き及ぶところになり、野口とかづは離婚した。

 私には野口とかづが似合いのカップルに見えた。三島だからこそ書けた男女の特異な恋愛形態である。

 
三島由紀夫「豊饒の海 第一巻 春の雪」を読む

  三島由紀夫は太宰治のことを嫌っていた。その理由の1つが、太宰の作品における貴族の描写がおそまつであるというものである。この作品とは「斜陽」を指している。田舎の大金持の子である太宰が貴族の生活を描くというのがおこがましいとでも三島は思ったのであろうか。
 「斜陽」を名作と思っていた私は、三島の「斜陽」についての感想を読んで、腹を立てたものだが、三島の「春の雪」を読んだとき、三島の貴族の描写のうまさにはたいへんというよりおそろしいばかりに驚いた。おそらく、日本近代文学史上で、貴族(大昔の貴族も含めて)の生活を描かせたら、三島と谷ア潤一郎がずば抜けているのではなかろうか。二人とも古典の教養はすさまじく深い。
 「春の雪」は「豊饒の海」の第一巻として書かれたものである。「豊饒の海」は4部作からなる三島の最後の大長編小説である。「豊饒の海」の第四巻の「天人五衰」を書き上げてまもなくして、三島は市ヶ谷の自衛隊駐屯地に向かったのである。
 「豊饒の海」は輪廻転生の物語である。「春の雪」の主人公が次々と3人の人間に生まれ変わるのだ。
 輪廻とは仏教の根幹になる思想である。「春の雪」には、仏教に関してのかなり詳しい言及がある。三島が仏教によほど関心があったのかがわかる。三島は輪廻転生を書くことで何を伝えたかったのであろうか。自分の魂は、生まれ変わって永遠に不滅だとでもいいたかったのか。とにかく、「春の雪」は大がつくほど傑作であると私は思っている。

 「春の雪」の主人公は、松枝清顕(まつがえきよあき)である。松枝家は名門中の名門の侯爵家である。清顕の祖父は鹿児島の下級武士出身で、明治維新の元勲ともいってよい人物である。
物語は清顕が18歳の大正元年から二年が舞台である。清顕には幼なじみがいた。綾倉聡子(さとこ)である。綾倉家は藤原家を祖とする宮家に連なる伯爵家である。成り上がりの松枝家とは格が違う。大金持で政府の要職についている清顕の父松枝侯爵は、生まれて間もない清顕を綾倉家に預けた。清顕は聡子と姉弟のように育てられたのである。
 聡子は血筋がよいだけでなく、楚々とした美人で、教養があり気品があった。清顕より2歳年上である。
 姉弟のように育てられたといっても、聡子は清顕のことを密かに愛していた。聡子は清顕に対する愛情をそれとなく清顕に示した。清顕は聡子の気持を無視した。露骨に聡子の愛情を否定したのである。
 聡子は二十歳になっており、もうすでに婚期に入っていた。綾倉家は家柄は申し分なかったが、家は衰退の一途を辿っていた。それを見かねて、松枝侯爵は聡子にこれ以上ない縁談を持ってきた。松枝侯爵は一応、清顕に聡子の縁談の話をしたが、清顕も賛成した。結局、聡子は天皇家直近の宮家に嫁ぐことに決まった。このとき、始めて清顕は自分が心の底から聡子を愛していることに気付いた。
 聡子に接することは、決して犯してはならない禁忌である。不可能であるからこそ、清顕は燃えた。清顕と聡子は偲んで逢瀬を重ねた。ついに、聡子は清顕の子を身ごもってしまった。
 宮家というより、天皇家に対して取り返しのつかない大きな罪を二人は犯してしまったのである。聡子は松枝侯爵の命ずるままに子を堕胎したが、剃髪して出家をした。
 清顕は二度と聡子と会うことはできなかった。清顕は肺炎になって、19歳の若さで死んだ。死ぬ直前、友人の本田繁邦に、「今、夢を見ていた。又、会うぜ。きっと会う。滝の下で」と清顕は言い残した。

 私は現在でも「聡子」という名の女性にはどこか特別な目で見てしまう。それほど、「春の雪」を読んだときの衝撃は大きかったのである。

 
作文道場三島由紀夫(みしまゆきお)
 1925年 - 1970年。東京生れ。本名、平岡公威(ひらおかきみたけ)。'47(昭和22)年東大法学部を卒業後、大蔵省にきんむするも9ヶ月で退職。執筆生活に入る。'49年、最初の書き下ろし長編『仮面の告白』を刊行、作家としての地位を確立。主な著書に'54年『潮騒』(新潮社文学賞)、'56年『金閣寺』(読売文学賞)、'65年『サド侯爵夫人』(芸術祭賞)等、'70年11月25日、『豊饒の海』第四巻「天人五哀」の最終回原稿を書き上げた後、自衛隊市ヶ谷駐屯地で自決・ミシマ文学は諸外国語に翻訳され、全世界で愛読される。<新潮文庫「午後の曳航」より引用。>
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