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読書感想文
 
倉田百三「出家とその弟子」を読む

 歴史上、一向宗の広まりはすさまじい。織田信長も徳川家康も一向宗徒にはほとほと手を焼いた。一般民衆の大多数が一向宗に帰依した。なぜ現在にいたるまで一向宗はおおくの民衆の心をとらえたのであろうか。
 一向宗すなわち浄土真宗の祖は親鸞である。親鸞は師匠の法然から教えを受け、浄土真宗を創りあげた。浄土真宗の広がりの理由は親鸞その人の人格にあるといっても過言ではないであろう。
 浄土真宗の本質とは何か。絶対他力である。南無阿弥陀仏の6文字を唱えることによって自分の全存在を仏に委ねることである。仏の前では善人も悪人もない。それどころか悪人こそ仏の慈悲を必要としている。
 人間は悪を行うものだ。この単純にして深い真理から親鸞の教えは出発している。悪をほどこすからこそ人間は救われなければならない。親鸞の教えはわかりやすくそして実行しやすい。
 私は漠然と親鸞に興味をもっていた。浄土真宗というよりも親鸞その人にである。空海・最澄は大学者というイメージであるが、親鸞には人間的な魅力を感じた。
 倉田百三の「出家とその弟子」を読んでから、私はますます親鸞のファンになったといってよい。

 「出家とその弟子」に対しては読む以前から、あるイメージをもっていた。実際に読んでみるとやはりイメージ通りであった。そのイメージとは俗なことに悩む親鸞の姿であった。
 「出家とその弟子」は戯曲である。親鸞が61歳から90歳で死ぬまでの期間を対象としている。物語は親鸞とその弟子唯円、その息子善鸞を中心にして展開し、そして彼らの悩みを追っている。
 善鸞は父親の親鸞から勘当された身である。それは遊蕩に明け暮れたからである。善鸞は遊女を愛人にもっていた。親鸞としては勘当もやむを得なかったのであるが、親鸞が善鸞を勘当した本当の理由は、善鸞が仏を信じていなかったからである。
 ところが、弟子の唯円は善鸞に対して同情する。というよりも唯円は善鸞のことが好きであった。
 そのうち唯円も善鸞と同じような境遇に陥る。唯円も遊女かえでに恋をしてしまうのである。仏門にはいった人間が、社会の下層も下層に位置する遊女と恋仲になったのである。かえでは彼女を抱える遊女屋のおかみに散々唯円のことで罵られひどい仕打ちを受ける。唯円は兄弟子にあたる僧たちから非難される。兄弟子たちは唯円の行動に腹を立て、唯円を寺から追い出そうとする。唯円が寺から出ていかなければ自分たちが出ていくと唯円を脅迫した。結局、最後は親鸞の判断を仰ぐことになる。
 親鸞は唯円の行為を許す。兄弟子たちは自分らの非を認め、唯円に謝罪する。なぜ親鸞は唯円を許したのか。それは唯円も人の子だからである。人の子はたとえ仏門に入ろうとも恋をすることは親鸞も自分の過去を振り返ってわかりすぎるほどわかっていたのである。唯円とかえではめでたく夫婦になる。
 親鸞は90歳になりもう寿命がわずかになった。長らく善鸞は親鸞に会っていない。唯円は善鸞の居所を突き止め、臨終間際の親鸞のもとえ善鸞を呼びよせることに成功する。親鸞は息子との再会を喜ぶが、善鸞に<仏を信ずるか>と問うと、善鸞は黙ってしまった。そして親鸞はこときれた。

 親鸞の息子善鸞は嘘でも、親鸞に向かって<仏を信ずる>と言えなかったのである。親鸞は苦しんだまま死ぬことになる。
 「出家とその弟子」が文学的に優れているのは物語の初めから終わりまでつねに親鸞が苦しんでいたことにある。この作品には仏教特有の解脱という概念はでてこない。
 親鸞の悩み、それはとりもなおさず倉田百三の悩みでもあったのかもしれない。

倉田百三「愛と認識との出発」を読む

 旧制高校といえばエリート集団であった。とりわけ旧制高校の中でもナンバーワンといわれた第一高等学校は超エリート集団であった。ところがエリートゆえに悩んだ一高生も多くいた。
 明治の世には藤村操という一高生が華厳の滝に飛び込んで自殺した。藤村は漱石の教え子でもあった。昭和になってからは「二十歳(はたち)のエチュード」を書いた一高生の原口統三が自殺した。藤村にしても原口にしてもこれはというはっきりした自殺の理由はなかったが、2人とも人生や生き方について真剣に悩んでいたのは事実であった。
 大正時代にも自殺するぐらい悩んだ一高生はいた。その1人が倉田百三である。倉田は「出家とその弟子」を書いた作家である。倉田は広島生まれで、第一高等学校に進む。同級生には芥川龍之介・菊池寛などがいた。倉田は一高在学中から論文をいろいろと書いた。倉田が21歳から29歳まで書いた論文をまとめたのが「愛と認識との出発」である。

 「愛と認識との出発」は1921(大正10)年に岩波書店から刊行されるや、その年に何十版も版を重ねたちまちベストセラーになった。以後、若い人たち特に一高生に一番愛読された本である。
 「愛と認識との出発」はまさに若い知的エリートたちに読まれるべくして読まれた本といえる。この本に載っている論文の内容は宗教・文学・恋愛・哲学・生き方など多岐に渡っており、すべて倉田が悩んだ末に書かれたものだとわかる。若い知的エリートならどこかで共感するはずだ。
 現在、ある程度年をとった知識人といわれている人たちに最もよく読まれているのが西田幾多郎の「善の研究」であるらしい。この日本で初めてといわれる西洋哲学書は刊行されてもあまり人の関心を誘わなかった。この本を真っ先に評価したのが倉田である。「愛と認識の出発」の中でも倉田はかなりの量を割いて「善の研究」に言及している。倉田はよほど西田のことが好きだったのだろう。

<個人あって経験あるにあらず、経験あって個人ありうのである。個人的区別よりも経験が根本的であるという考から独我論を脱することが出来た。>

と記している。実際に倉田は西田を訪れた。
 若い人たちが悩むのは当たり前のことである。特に知的な若い人たちが最も悩むのは性の問題である。「愛と認識との出発」の中でも倉田は性の問題についてある意味支離滅裂な論理でもって論じている。人生を長く経験した人が読めば、滑稽さを感じる部分もあるが倉田が真摯に性について悩んでいたのがわかる。
 倉田は病弱で、それが原因で一高を中退した。その後療養生活にはいる。好きな女性から絶縁状をもらったこともある。倉田は現実的に悩みの多き生活を送ったのである。
 「愛と認識との出発」の中にはいろいろな人物の名前がでてくる。その中で繰り返しでてくるのがドストエフスキー・トルストイ・キリスト・親鸞である。倉田はこの4人を悩み抜いた末に救いの光を見出した人間とみているようだ。倉田がドストエフスキー・トルストイの作品や聖書そして「歎異抄」を繰り返し読んでいるのがよくわかる。

 「愛と認識との出発」は難解なところもあるが、倉田が真剣に人生に悩んおり、そして倉田がやさしく愛のある人であることがよくわかる。

 

大森に建っている倉田百三の案内板

※:写真は、大森に建っている倉田百三の案内板です。

 
作文道場倉田 百三(くらた ひゃくぞう) 1891年-1943年
広島県庄原市出身。広島県立三次中学校(現広島県立三次高等学校)卒業。第一高等学校に進学するが肺結核を患いを中退。
1921(大正10)年「愛と認識との出発」は当時の学生に阿部次郎の「三太郎の日記」や西田幾多郎の「善の研究」とならび、多大な影響を与えた。
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