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読書感想文
 
幸田露伴「五重塔(ごじゅうのとう)」を読む

谷中墓地にある天王寺跡の石碑 明治30年に、2番目の大学である京都帝国大学が創立された。これにともなって、唯一の大学であった帝国大学の名が東京帝国大学と変わった。京都帝国大学は官吏養成的傾向の強い東京帝国大学に対抗するように、純粋に学問研究をめざした。その伝統は今も残っている。
 京都帝国大学の教授たちは当然のごとく高度な頭脳の持ち主が集まっていたが、すべての教授が大学出身者とは限らなかった。大学出身でない著名な2人の教授がいた。東洋史学の内藤湖南と幸田露伴である。内藤湖南は師範学校卒で、露伴にいたっては学歴はほとんどない。
 学歴のない露伴が何ゆえ、京都帝国大学の教授に推されたのか。それは露伴の想像を絶する博覧強記のためであった。露伴は誰しもが認める巨大な知であったのだ。

 作家幸田露伴の代表作はやはり「五重塔」である。この作品は谷中感応寺の五重塔を製作した大工ののっそり十兵衛とその親方川越の源太そして感応寺の朗円上人(ろうえんしょうにん)を中心にする物語である。
 感応寺では五重塔を建てることに決めた。その仕事は感応寺を建てた実績のある源太にまかされるはずであった。ところがのっそり十兵衛が名乗りをあげたのである。のっそり十兵衛は自他ともに認める馬鹿であり、とん馬な人間である。十兵衛は親方の源太の庇護があったればこそ、そこそこに仕事をこなし、家族を養っていけた。その十兵衛が源太をさしおいて、自分が五重塔を作りたいといいだし、直接朗円上人に談判した。
 紆余曲折をへて、五重塔製作の仕事は十兵衛に下った。それはまさに天の声であった。上人自ら十兵衛に仕事を命じたのである。
 のっそり十兵衛とはいかなる人間として露伴は描いたのか。源太は義理人情に厚く、弟子思いの親方として描かれている。常識的に考えれば、十兵衛は恩ある源太に仕事を譲るべきであった。2人一緒に作ろうという源太の申し出をすら断って、十兵衛は自分で作ることにこだわる。上人のとりなしを聞いて、源太はいろいろと譲歩するが十兵衛は頑なに拒否をする。ここに至って、十兵衛がエゴイストを超えて、芸術家の域にまで達しているのはあきらかである。十兵衛は左甚五郎であり、滝沢馬琴であり、そして葛飾北斎であったのだ。十兵衛の全存在は五重塔を自ら作ることだけに集中された。それ以外のものは家族を含めて、十兵衛には関係ないものであった。
 十兵衛は神の領域にいる人間として露伴は描いたのだ。さしずめ朗円上人は神の領域にいる人間を見抜く、これまた神がかり的な人間なのかもしれない。神の領域は別のいい方をすれば、人間を昇華さした最高の存在形態とでもいえようか。ある意味英雄ともいえる。露伴にとって、英雄とは神の領域にはいった人間と同等であったのかもしれない。そして、神の領域にはいった人間は最後には自然の神と対峙することになる。
 「五重塔」の白眉は、五重塔ができあがって、明日落成式という夜、暴風雨が襲ってくる場面であろう。露伴は、暴風雨を自然の神として、擬人的に見事な文章で描いている。
 自然の神である暴風雨に対峙するは神の領域にいる人間、のっそり十兵衛である。十兵衛は鑿(のみ)をもって、塔の第五層の戸を押し開けて、風雨渦巻く外をきっと睨みつける。
 暴風雨が過ぎ去ったあとの江戸の町は悲惨な状況を呈していた。民家が壊されただけでなく、大寺も脆くも倒れていた。その中で、感応寺の五重塔だけは一寸一分歪みもしなかった。人間の神十兵衛が自然の神に勝ったのだ。
 十兵衛とは人間的感覚・感情を超えたところに存在する。おそらく露伴が理想とした人格であったのかもしれない。

 私は、「五重塔」を読みながら、実は、十兵衛と露伴がだぶってしょうがなかった。
露伴は教授職にはついたが、ほどなくその職を辞す。露伴は教育者でなく、やはり芸術家であったのだ。

※:写真は、谷中墓地にある天王寺跡の石碑です。

 
幸田文「みそっかす」を読む

 明治の文豪といえば、夏目漱石と森鴎外のほかに幸田露伴があがる。露伴は漱石・鴎外のように学歴はなかったが、知識の巨人で、京都帝国大学の教授も勤めたことがある。
 露伴とは一体どのような人であったのであろうか。露伴は2度結婚している。最初の妻は病気で死んでいる。この妻との間に2男2女をもうけたが、長男と長女を早くに亡くしている。後妻との間には子はいない。
  露伴は向島に家を構えた。この家は蝸牛(かぎゅう)庵と呼ばれた。現在、その地には文学碑が建てられている。
 露伴は1867年に生まれて、1947(昭和22)年に亡くなっている。漱石と同じ年に生まれているが、漱石よりはるかに長く生きている。
  露伴が亡くなったあと、次女の幸田文は父の思い出を綴った。これをまとめたのが「みそっかす」である。このとき、文は40代半ばである。幸田文は小説家として有名であるが、彼女が初めて文章らしい文章を書いたのは「みそっかす」に収められている随筆が初めてであった。「みそっかす」は文の処女作になるわけだが、40半ばにして初めて本格的に文章を書いたにしては、驚くほどすばらしい文章である。これも遺伝なのかなとふと思ってしまった。
 文はとりたてて物書きになるための修行をしたわけではない。父露伴に長く接していたので知らず知らずに文章の書き方の極意を身に付けたのかもしれない。

 「みそっかす」には29編の随筆が収められている。文が小学校を卒業するまでの思い出が書かれている。内容は大きく分けて、父露伴のことと継母のことである。
 文が幼いときに実母が亡くなった。その後、露伴が再婚し、文には新しい母ができた。ただし、この母は継母であり、自分は継子であった。文は学校の同級生の男の子から、継母・継子と苛められた。文は継母・継子ということにかなり拘泥している。
 継母だからといって、文は母を嫌っていたわけではない。おそらく、自分が結婚して子の母になって振り返ったからであろうか、文は継母に対して深い同情の気持ちを寄せている。少女の継母に対するぎくしゃくした気持ちがうまく描かれている。
 「みそっかす」を読んで意外だったのは、露伴と継母との仲が悪く、しょっちゅう夫婦喧嘩をしていたことである。その理由の筆頭は露伴が大酒飲みであったことである。露伴は毎日晩酌をしており、その酒が度を過ごすことがたびたびであった。そのとき、決まって夫婦喧嘩が始まった。妻は酒飲みが大嫌いであったのだ。それが、露骨に態度に出た。露伴にお酌などしたことがなかった。文は母が可哀想だとそのたびに思った。
 継母はクリスチャンであった。彼女は女学校の元教師で、とても勉強家で、片時も聖書は手離さなかった。彼女は夫をクリスチャンに何とかしようと試みた。これも夫婦喧嘩の原因だったのかもしれない。この2人がよく離婚をしなかったと、文はしみじみと感心している。
 継母は文に対してはきびしかったが、文は感謝の念もって継母を偲んでいる。
 文は父の露伴に対しては甘えていたが、露伴は癇癪持ちのところがあり、ときどきは恐い思いをしている。
 文は父親とは何でも知っているものだと思っていた。学校のクラスの女の子が、彼女の父親があることを知りませんといったとき、文は不思議な気がした。露伴は文の質問にはすべて答えた。着物の洗い方まで教えてくれた。「みそっかす」を読むだけでも、露伴が博覧強記であることが理解できる。
 「みそっかす」は文豪露伴の横顔が垣間見れる貴重な本である。

 とにかく「みそっかす」の文章がすばらしい。美しい日本語を私は思う存分に堪能させてもらった。

 

※:写真は、墨田区にある幸田露伴文学碑です。

 

※:写真は、大田区本門寺にある五重塔です。

 

※:写真は、本門寺五重塔の隣にある幸田露伴・文の墓所です。

 
作文道場幸田 露伴(こうだ ろはん)
慶応3年7月23日(1867年8月20日) - 昭和22年(1947年)7月30日。
小説家。本名、成行(しげゆき)。別号には、蝸牛庵(かぎゅうあん)、笹のつゆ、雪音洞主、脱天子など多数。江戸下谷生れ。娘の文は随筆家。
 
幸田 文(こうだ あや)
1904年-1990年。作家の幸田露伴の次女として東京向島に生まれる。5歳のとき母を失い、後に姉・弟も失う。女子学院を卒業し、24歳で結婚するが10年後に離婚し、娘の玉(青木玉)を連れ父のもとに戻る。
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