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読書感想文
 
井原西鶴「武家義理物語 巻一 我物ゆゑに裸川」を読む

 江戸時代、武士は支配者階級であると同時に、一般庶民の見本にならなければならなかった。武士は食わねど高楊枝ではないが、武士はつねに潔癖・高尚いいかえるとかっこつけていなければならなかった。武士でいることは疲れることでもあった。
 武士が最も忌み嫌ったのは武士にあるまじき行為をすることである。武士にあるまじき行為とは儒教の教えにかなってない行為ともいえるが、簡単にいうと義理を欠いた行為である。 
 武士は義理を重んじた。現代の私たちから見れば何と馬鹿げたことをと思うようなことも涼しい顔で平気で行った。切腹などがいい例である。しかし、当時においては義理のための行為は美しく尊い行為と思われ、義理を欠いた行為は非常に恥ずかしいものであった。ただ、義理を押し通した行為は悲劇を招きかねない。太宰治は義理のための行為を<美しくそして哀しい>といっている。太宰もまた義理を重んじた人である。
 西鶴も武士の義理のための行為を美しいと感じ、義理にまつわる話をたくさん書いた。それが「武家義理物語」である。「武家義理物語」に出てくる話はおもしろいが、ほとんどが哀れを感じるものである。太宰が<美しくそして哀しい>といったのがわかるような気がする。現代人の私もどこか共感してしまうような話が多い。
 今回取り上げるのは、「武家義理物語 巻一 我物ゆゑに裸川」である。この物語は「太平記 巻三五 北野通夜物語ノ事付青砥左衛門ガ事」をベースに書かれている。太宰は西鶴のこの作品が好きで、これをもとに「新釈諸国噺」の一編を書いている。

 北条の時代、鎌倉幕府の家臣である青砥左衛門尉藤綱は馬に乗って、滑(なめり)川を渡っているとき、用があって火打袋を開けようとすると、十銭近くを川に落としてしまった。
 青砥は向こう岸に上がると、早速、里人たちを呼び寄せ、三貫文を与えて、川に落とした十銭を探させた。里人たちはそれぞれ松明(たいまつ)を手にもって、必死になって十銭を探した。
 青砥はたとえ地を割いて、竜宮城に達しようとも見つけ出せと激を飛ばした。すると、一人の人足が一度に三銭を見つけた。それから、その人足はたて続けに一銭、二銭と見つけて、たちどころに十銭を見つけてしまった。
 青砥は喜んだ。<これをこのまま捨てておけば、国の宝を失うことになるが、三貫文はこの世に留まって、人の回り持ちとなる>と里人たちに語った。
 里人たちは思わぬところから、金が儲かったので、その夜、酒宴を張った。その席で、十銭を見つけた男が、<俺がうまくやったので、おまえたちはこうして酒を飲めるのだ>といった。その男がいうには、見つけた十銭は実は自分の金だというのである。男は青砥をまんまと騙したのである。
 その席にいた別の男が、青砥を騙した男の行為を人の道に劣る行為であると非難し、そんなにしてもらった金では酒は飲めぬといった。
  このことは青砥の耳まで届き、青砥は自分が騙されたことを知り、件(くだん)の男を呼び寄せ、丸裸にして、滑川でもう一度落とした金を探させた。男は秋から冬になるまで毎日川の中を探した。川の水も涸れてしまった。九十七日目にしてやっとすべて見つけ終わった。
 青砥は騙した男を非難した男を呼び寄せた。男の素性を調べてみると、その男の先祖は武士であった。青砥はその男を武士として取り立てた。

 西鶴はこの物語の中で、<一文を惜しんで百文を失う>と笑ったものたちを、考えが浅いと戒めている。西鶴は道理というものを本当にわかった人なのであった。青砥は為政者の鑑であった。
 滑川は現在も鎌倉市中を流れている。

 
井原西鶴「武家義理物語 巻一 死(しな)ば同じ浪枕(なみまくら)とや」を読む

 大井川には明治になって初めて橋が架かった。大井川は江戸時代を通じて、架橋が禁じられたばかりでなく、渡船も禁じられた。
 江戸幕府は江戸が敵に攻められないように何重にも防御したのである。大井川だけではない、富士川などの大きな川では、架橋・渡船は禁じられた。江戸を見ても、江戸時代初期には、墨田川には千住大橋しか架かっていなくて、両国橋が架かったのが明暦の大火の後の1659年であった。因みに、新大橋が1693年、永代橋が1698年、吾妻橋が1774年に架けられている。
 東海道を行く旅人は大井川は難所であった。天気がよくて、川の水が少なければ問題がなかったが、折悪しく雨がたくさん降って、水かさが増せば、立ち往生し、水が引くまで何日も待たなければならなかった。水かさが増して、無理に渡ったりすると、水に流されて死ぬ確率が高かった。特に、梅雨の時期には、旅人は気が気でなかったのである。
 今回取り上げる「武家義理物語 巻一 死ば同じ浪枕とや」には、大井川を無理して渡って死人がでたことが扱われている。
 この話は本当に、哀しくせつなくなる話である。義理とは何とおそろしいものであるかと痛感させられる。義理を重んじることは確かに日本人の美徳の一つではあるが、同時に、不条理なものでもある。
 西鶴は武士の義理のための行動を愚かな行為とは見ていない。どうしようもない定めのように考えている。否定もしないが、かといって美化もしていないのである。冷静な目で淡々と記述している。だからこそ、哀しさがより強くなってくるのだ。やはり一級の文学作品である。

 まだ戦国時代の話である。摂州伊丹の城主荒木村重につかえているものに、神崎式部というものがいた。式部は横目役(目付役みたいなもの)を長く勤めている由緒正しい武士であった。
 あるとき、主君の次男の村丸が蝦夷を見たいと言い出し、そして旅立つことになり、式部は若殿のお供を仰せつかった。一人息子の勝太郎も一緒に行くことになり、父子ともに、東海道を下ることになった。
 出発したのは卯月(旧暦四月)の末で、旅をして日を重ねるうちに、梅雨に入り、雨がたくさん降った。駿河の大井川の西岸の金谷に着いても雨は止まず、大井川の水かさはかなり増していた。
 その日は、対岸の嶋田に泊まることになっていたが、水かさは増える一方だったので、今日は金谷の宿に泊まることを式部は若殿に進言したが、若殿は血気さかんで、是非にも川を渡れと命じた。式部たちは意を決して、水流が険しくなった川を渡った。
 式部と勝太郎は無事に渡ったが、森岡丹後の息子の丹三郎は水に流されて死んでしまった。森岡丹後は式部と同役で、式部は森岡から一人旅立たせる息子のことをくれぐれもよろしくと頼まれていたのである。
 式部は森岡に対して面目なく、勝太郎に説明し、そして川に飛び込めと命じた。さすがに勝太郎は武士の子供だけあって、父親の気持を理解し、何のためらいもなく、川に飛び込んで果てたのである。
 勝太郎は式部にとってはたった一人の子である。式部そして勝太郎の母の嘆きは一通りではなかった。丹後には丹三郎の他に子供があることを思うにつけ、悲しみはいっそう増した。
 式部夫妻は世の無常を感じ、出家した。森岡も式部のとった行動を知るに及んで、このままおめおめと生きてはいけないと感じ、こちらも妻子とともに出家した。

 義理とは何とむごいものであろうか。

 
作文道場井原西鶴(いはらさいかく) 本名:平山藤五(ひらやまとうご)。
1642年(寛永19年) - 1693年(元禄6年).。大坂生まれ。1682年(天和2年)に発表した。『好色一代男』によって、浮世草子作家としての地位も獲得した。江戸時代の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳人。別号は鶴永、二万翁。
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