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読書感想文
 
井原西鶴「日本永代蔵 巻四 祈る印の神の折敷(おしき)」を読む

 江戸時代、商人の理想的な生き方は、23、24歳までは親の指図を受け、45歳までに一生困らぬだけの基礎を固めておいて、その後遊び楽しむというものである。人生50年といわれた当時、45歳で隠居というのも当然なのかもしれない。
 人生50年というのは幼くして死んだ子どもたちも含めての平均なので、成年まで達すると死亡率はぐんと減り、70歳、80歳まで生きた人もたくさんいた。因みに、西鶴は数え年52歳で死んでいる。数え年というのは生まれたときを1歳とし、その後正月が来るたびに年齢が1歳増えていく数え方である。赤ん坊はこの世に生を受けてから母親のお腹の中に10ヶ月と10日いる。数え年は母親のお腹にいる期間も年齢に数えているのである。
 とにかく、江戸時代の商人は幸福な老後を迎えるために一生懸命に働いた。ただ、商売は一生懸命やったからといって成功するとは限らない。成功するためには、自分の力ではどうしようもない運が必要であった。
 幸運を得るために商人たちは神様にお願いをした。大黒天・恵比寿・弁財天・福禄寿・寿老人・毘沙門天・布袋の七福神ばかりでなく、お稲荷さんなどにもお願いをした。すべて商売繁盛のお願いである。江戸時代は商人ばかりでなく、すべての人が信心深く、神様の存在を信じていた。
 神様はいい神様ばかりではなかった。金持ちにしてくれる神様ばかりでなく、貧乏にする神様もいたのである。西鶴のおもしろいところは、この貧乏神の存在を無視しないだけでなく、なんとも人情味のある神様として描くところにある。
 今回取り上げるのは「日本永代蔵 巻四 祈る印の神の折敷」である。この話は貧乏神を祀って金持ちになった商人の話である。西鶴はこの商人を例にして、商人たるもの召使いを多く使う身分にならなければいけないと説いている。
 一生懸命働いて大金持ちになり、たくさんの人を使い、雇用を創出することを西鶴はいっているのである。お金が回らなければ世の中が暗くなることを西鶴は知っていた。西鶴という人は資本主義社会の理念をよく理解していたのである。西鶴にとって金儲けは善であった。

 桔梗屋という小さな染物屋があった。正直一筋に働いてきたが、なかなか商売がうまくいかず、たいへん貧しかった。毎年餅つきが遅くなり、正月は料理がなく餅だけで過ごした。人並みに宝船(七福神が書いてある絵)を敷いて寝たり、節分には<福は内>といってたくさん豆をまくのであるが、どれもご利益はなかった。桔梗屋は途方に暮れるばかりであった。
 桔梗屋はたまりかねて、世間とは逆に、人の嫌う貧乏神を祀ることにした。変な藁人形をこしらえて帷子などを着せ貧乏神を作った。その姿はたいへんみすぼらしいものであったが、お祈りをした。
 人からお祈りをされたことのない貧乏神は感動した。貧乏神は、桔梗屋夫婦の夢枕に立ち、2人に感謝した。この恩は一生忘れないといい、そして<柳は緑、花は紅>と3、4度繰り返した。
 紅とは紅染(もみぞめ)のことであろうと、桔梗屋は思い、これからヒントを得て、新しい染物を開発して、桔梗屋は10年もたたないうちに分限となった。
 この桔梗屋は若いときからとにかく真面目に働き分限となり、老後はたのしく暮らした。商人の鑑みたいな生き方をしたのである。

 「日本永代蔵」には成功した商人の話がたくさん出てくる。その商人に共通なのは正直・勤勉でけちでないということである。
 現在、たくさん経営の本が出版されているけれども、これらの本を読む前に「日本永代蔵」を読むことを私はお勧めする。

 
井原西鶴「日本永代蔵 巻五 三匁五分曙(あけぼの)のかね」を読む

 現在は、当たり前のようだが、金がものをいう時代である。江戸時代はというと、やはり現在に劣らず、金の世の中であった。いや現在以上であったかもしれない。
 江戸時代では、仲人というのは一種の商売であった。嫁は持参金を持ってやってくる。この持参金の一割を仲人はもらえたのである。結婚する男のほうも持参金を目当てにするものが多かった。ただ、持参金というのは終生、嫁の所有で、離婚すればそれを持って去ったのである。男もうかつには嫁の持参金には手を出せなかった。
 今さらいうまでもないが、金の力とはすさまじい。商人たちは必死になって金を稼ぎ、そして蓄財した。金が入っても、それ以上に使っては元もこうもない。商人たちは始末(倹約すること)を率先した。ぜいたくをせず、始末に励むことが長者になる道であった。一枚の着物を一生使った長者もいたし、一度も芝居を見たことのない長者もいたし、一度も茶屋遊びをしたこともない長者もいた。何のために金を儲けたのかよくわからない長者がいたのである。
 男なら1度はぱっと遊んでみたい。江戸なら吉原、京都なら島原のような遊郭は男にとってはまさに天国であった。男としての最高の贅沢を味わうことができたのである。だが、かかる費用もべらぼうに高かった。
 西鶴の作品には遊郭で散在する金持ちの男たちが数多く登場する。二年も三年も遊郭で遊び続けて、現在の価値で何百億円の金を使ったという男の話もある。とにかく、遊郭というところは金を使うにはもってこいのところだった。
 長者というのは一代目は倹約家(だからこそ長者になったのであるが)だが、概して二代目はぼんぼんで遊び人が多い。莫大な遺産を受け継いでも、二代目が放蕩の限りを尽くして身上(しんしょう)を潰した話は「日本永代蔵」にたくさん出てくる。
 商売で最も大切なことは信用である。特に、両替屋などは信用がなくなったらおしまいである。両替屋とは今の銀行と同じように、金を預かって、それを他に貸すということをやっていた。両替屋が破産でもしたら、預けた金は返ってこない。だからこそ両替屋は信用をつけるため、今でいう自己資本率を高めるように努力した。
 今回取り上げるのは「日本永代蔵 巻五 三匁五分曙のかね」である。この話は典型的な二代目没落の話である。最後がたいへんスリリングでなおかつ滑稽である。「日本永代蔵」の中でもとりわけ優れた作品であると私は思っている。確か、太宰治もこの話を種に「新釈諸国噺」の一編を書いている。

 万屋という長者がいた。万屋は贅沢をせず、倹約に倹約を重ねて長者になった。万屋には一人息子がいたが、この息子が小杉紙(遊里で鼻紙として用いる紙)を鼻紙にするのを知って、万屋は息子を勘当した。
 万屋は妹の息子を預り、二十四、五歳まで手代として働かせた。この男はたいへんな倹約家で、捨てられた草履まで集めて瓜の苗代用にと実家に送ったので、万屋は感心し、この男を養子とし、嫁をとらせた。
 嫁は、男が女遊びをしないようにと、嫉妬深い女にした。事実、男が少しでも女に近づくと、気が狂ったように嫁は騒ぎ出し、男は嫁以外の女には目もくれなかった。
 ところが、万屋夫婦が死ぬと、俄かに嫁は贅沢の味を知り、夫婦ともにたいへんな贅沢を始めたので店が潰れかかった。潰れる寸前で、男は気をとり直し、新たに両替屋を始めた。内情は火の車であったが、何とかうまくいき始め、大晦日を迎えた。
 両替屋には一文の金もなかったが、年末の勘定が終わるこの大晦日を無事過ごせば、来年は持ち直せそうであった。ところが、七つ(午前四時)の鐘が鳴ると、兵庫屋という人が<小判千五百両ある。来年いっぱい預けたい>といってきて、さらに<先ほど受け取った利息の銀のうち三匁五分が悪銀であった>といった。その金を取り替えることができなくて、万屋は正体がばれてしまった。

 商人にとって、くれぐれも贅沢は禁物である。

 
井原西鶴「日本永代蔵 巻六 見立てて養子が利発」を読む

 旧暦の10月21日は恵比寿(えびす)講である。この日は、商いの神様である恵比寿を祀る日であり、商人は親族一同を集めて盛大に祝った。その祝いの膳には鯛の尾頭付きがでたという。江戸では鯛1匹の値段が1両2分もした。1両を現在の価値で10万円とすると、15万円もする鯛をお祝いに食べたことになる。京都・大坂は江戸のようにはいかない。
 金持ちの住む京都室町では、2匁5分で鯛1匹を買い、さらにこれを5枚の切り身にして祝いの膳に出した。2匁5分は現在の価値でいうとだいたい4200円である。概して、江戸と京都・大坂の人たちの金銭感覚はかなり違っていたようだ。
 宵越しの金を持たないのが江戸っ子といわれているように、江戸っ子は稼いだ金をぱっぱと使ってしまい、貯蓄のことは考えなかった。なぜこのようになったかというと、江戸の町には火事が多かったことが挙げられる。火事になればすべてを失うし、また、火事の後の復興で仕事はいくらでもあった。別に金を蓄えなくても、仕事はつねにあったから困ることはなかった。火事は恐ろしいものであったが、その火事が江戸の職人たちに仕事を創り出していたのも事実であった。江戸の商人たちも基本的に江戸っ子の気質をもっていたから、京都・大坂の商人に較べて派手好きであったのであろう。
 西鶴は始末(倹約のこと)の大事さを繰り返し述べているが、金を使わなければ金は入ってこないこともよく知っていた。<銀(かね)が銀を生む>が西鶴の経済哲学であった。普段は始末をするが、金は使うときには使わなければならないと西鶴は説いている。これは資本主義の本質をついたもので、現代流にいうと、投資をしなければ売り上げは増えないということである。
 始末一辺倒だと、個人の生活はラクになるかもしれないが、社会全体になると、経済規模は縮小し、景気は悪くなる。これを、経済用語で合成の誤謬(ごびゅう)という。合成の誤謬を知らないととんでもないことになる。
 8代将軍吉宗は名君として名だたるが、こと経済に関しては全くの無能であった。吉宗は紀州藩主のとき、始末と米増産で財政を立て直したのであるが、これと同じ方法で幕府財政の立て直しを行った。全国に始末と米増産を指令したのである。そのため、消費はがた落ちになり、米はたくさんできたが、米の価格が暴落した。米を給料としてもらう武士階級は苦しむことになった。以来、不景気と財政悪化は幕末まで続く。
 西鶴のすごさは、資本主義の経済理論を踏まえた上で、商人の道を説くことである。単なる儒教家の説法とはわけが違う。西鶴の見方は1つだけではなく、つねに対象を相対化して見る。西鶴は畏るべき人であった。

 さて、今回取り上げるのは「日本永代蔵 巻六 見立てて養子が利発」である。この話は3人の商人の行く末について述べたものである。
 まず初めは養子が大金持ちになった話である。賢く、倹約の精神をもった丁稚を、両替屋の主人が目ざとく見つけ、この丁稚を養子にした。丁稚は養子になると、才能を発揮し、もともと2800両の資産を資本にして、いろいろな商売に手をだし巨額の富を手にした。財産は3万両になった。
 2番目は、懐中合羽を発明して利益をあげ、それを元手にしていろいろな商売をして大金持ちになった商人の話である。一代で身代を築いた金持ちを一代分限というが、一代分限になることはなかなか難しいと西鶴は説く。
 3番目は京都の金持ちの商人の息子の話である。息子は何の商売もしないで、両替屋に多額の金を貸し付けてその利子で生活をしていた。その利子は毎日235匁(約40万円)にもなったのであるが、何かに使って、財産をすべて失ってしまった。この男、京都にいれなくなって江戸に出た。
 男はいろいろと遊びの芸は達者であったが、銀貨の良否の識別や、そろばん勘定ができず、仕事につくことができなかった。それでしかたなく京都に戻った。そこで、知り合いの紹介で、謡や鼓の指南をして細々と暮らした。

 西鶴は世の中の理屈を知り抜いていた。「日本永代蔵」はその理屈をおもしろおかしくそしてするどく説いているのである。

 
作文道場井原西鶴(いはらさいかく) 本名:平山藤五(ひらやまとうご)。
1642年(寛永19年) - 1693年(元禄6年).。大坂生まれ。1682年(天和2年)に発表した。『好色一代男』によって、浮世草子作家としての地位も獲得した。江戸時代の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳人。別号は鶴永、二万翁。
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