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読書感想文
 
井原西鶴「日本永代蔵 巻一 初午(はつうま)は乗って来る仕合せ」を読む

 幕末、長崎の海軍伝習所ではオランダ人の教官が勝海舟をはじめとする幕臣に海洋学に関する種々の教科を教えた。
 オランダ人教官たちは一様に日本人の知的レベルが高いのに驚いた。特に、数学の力がすごかったという。ただ、勝海舟は数学が苦手らしかったが。日本人の生徒たちは、三角比などを用いた幾何学を難なく理解した。
 日本人は代々数学が得意なのである。日本人の数学の能力が高いのは、明治になって西洋数学を取り入れた結果であると思っていると大間違いだ。江戸時代には日本にも立派な数学があった。江戸時代の数学を和算という。
 和算は計算問題を中心に発展したものであるが、ある分野では当時の西洋を凌駕する業績をあげている。関孝和の行列式、建部賢弘の円周率の計算など世界レベルを超えていた。和算のテキストとして流布されたものが「塵劫記(じんこうき)」という本である。
 この本は植木算・つるかめ算・ねずみ算などの計算問題の解説書である。問題をあげて、それに対しての解説が書かれている。「塵劫記」はベストセラーになり、和算に興味がある人は子供から大人まで大勢の人が読んだものである。
 西鶴の商人ものの作品を読んですぐ気付くことであるが、西鶴は数字を多用し、ときには数字に意味をもたせることがある。数字抜きには西鶴文学は語れない。
 西鶴の作品が扱う商人の世界では数字が命である。数字に弱いものは商人として成功しない。数字の感覚が最も要求されるのが金利の計算である。商売とはお金を借りて、そのお金を投資して、お金を回収する。そしてお金を利子ともに返済していくのである。このサイクルは江戸時代も現代も変わらない。金利に見合った商売をする。これが商売をする鉄則なのである。そのため、商人は金利計算に関しては敏感であった。
 金利計算も「塵劫記」にはでている。ねずみ算とは金利年100パーセントの金利計算であるといってよい。ねずみ算は1年たつと倍になって返す借金と同じ計算である。ただ、ねずみの増え方の場合には1年が1ヶ月になるかもしれないが。
 1年で2倍にして返す借金をしたらそれは苦しいであろう。1年で2倍、2年で4倍、3年で8倍になる。現在ではこのような高利でお金を貸すことはできない。
 ところが、西鶴の時代には金利年100パーセントでお金を借りた商人がいたのである。

 今回取り上げるのは、「日本永代蔵 巻一 初午は乗って来る仕合せ」である。この話には1年2倍の借金がでてくる。
 山も春めく2月の初午の日、泉州にある天台宗の水間寺には貴賎男女が大勢参詣していた。彼らはほとんど信心できたのではなく、お金持になりたいがために、それを祈願しにきたのである。
 水間寺では参詣の人たちがお金を寺から借りる風習があった。金利は年100パーセントすなわち年2倍である。1文借りれば2文、10文借りれば20文返すのである。借りる額が少ないので問題になることはなかった。
 あるとき、1貫(1000)文借りたいといった男がいた。役目の僧は住所も名もきかないで1貫文渡した。このことが問題になり、寺では以後、多額のお金を貸すのをやめた。
 お金を借りた男は江戸のはずれで、漁師相手の船問屋をしていた。男は<仕合丸(しあわせまる)>と書いた掛硯に借りたお金を入れておいた。男は漁師が出漁するとき、そのお金を100文ずつ貸した。そのお金を借りた漁師は幸運に恵まれ豊漁になり、お金を金利をつけて男に返すことができた。これが評判をよび、たくさんの漁師が次々と男からお金を借りては返すようになった。1年2倍の計算で、1貫文のお金が13年目には8192貫文になった。
 男はそれを通し馬につけて東海道を運び、水間寺に積み上げた。僧たちはびっくりして<後世の語り草>にしようと都から大工をよんで宝塔を建立した。
 この男こそ江戸の大商人網屋というお金持であった。

 2を13乗すると確かに8192になる。西鶴の計算は正しかったのである。大作家になるには計算が強くなければならないという証明である。

 
井原西鶴「日本永代蔵 巻二 世界の借家大将(かしやだいしょう)」を読む

 江戸時代の金持ちを分限または長者といった。はっきりした定義はないのだが、西鶴にいわせると、銀500貫目以上の財産を持っている人を分限、銀1000貫目以上の財産を持っている人を長者といったらしい。
 銀500貫目が小判何両かを計算してみる。1目は1匁、1貫は1000より、500貫目は50万匁である。1両は60匁だから、500貫目はだいたい8300両ということになる。
 さて、1両の価値であるが、これには諸説あり、現在の価値でいうと、1両8万円という人もいれば1両20万円という人もいる。二八そばという夜鳴きそばがある。この二八そばは1杯16文である。だから二八そばというらしいのだが。現在ではかけそば320円ぐらいだから、1文は20円に相当する。1両は4000文だから、1両は8万円と計算できる。これはあくまでも二八そばを現在の価値で320円としたからであり、もし640円とすればたちまち1両は16万円になってしまう。
 いずれにしろ1両というのはたいへん価値があった。一般の江戸庶民たちは普段、小判など使うことはなかったろう。仮りに、1両を10万円とすると、分限の財産は8億3千万円以上、長者の財産は16億6千万円以上ということになる。
 「日本永代蔵」には長者の話がよくでてくる。やはり、商人の夢は長者になることであるから、主に商人について書かれた「日本永代蔵」に長者が登場するのは当然といえる。 それでは一体どうやったら長者になれるのであろうか。「日本永代蔵」にはそのノウハウがたくさん書かれている。「日本永代蔵」がよく読まれる理由の1つが、金持ちになるノウハウ本の要素をもっているからかもしれない。
 いろいろな長者が「日本永代蔵」には登場するが、それらの長者たちには共通点がある。それは、合理的な考えをするということである。長者たちにとっていい服を着ることに意味がない。服は寒さをしのげればよいぐらいの感覚しかない。
 西鶴は何も長者になるためには特別なことをしろとはいっていない。誰でもができることをいっている。だが、誰でもができることが意外と難しいのである。
 今回取り上げる「日本永代蔵 巻二 世界の借家大将」は長者になるためには、どのような心がまえを持つべきかを述べたものである。とてもおもしろい。

 藤市という商人がいた。藤市は<広い世界で自分が一番金持ちだ>と自慢していた。その理由は2間間口の店を借りる身で、1000貫目の財産を持っていたからだ。
 藤市は長者になるための立派な哲学を持っていた。その哲学は無駄なことをしないということである。藤市は普段、肌に単(ひとえ)の襦袢に、その上に綿入れ1枚着るだけで、ほかに着るものは持っていなかった。一生のうちで、絹物といえば紬だけでたった2枚だけである。
 町内の付き合いで葬式に出ることになった。鳥辺山に野辺送りに行った帰り、野道で丁稚と一緒にせんぶりを引き抜き、<これを干せば腹薬になるぞ>といって持ち帰った。とにかく藤市はただでは起きない男であった。たまにけつまずいてころぶと、火打石を拾って袂(たもと)に入れるほどである。
 新年の餅も自分の家で作ろうなどとは考えなかった。餅は餅屋にまかせたほうが安上がりであるのだ。だが、餅屋が出来たての餅を持ってきても藤市はすぐには受けとらなかった。時間がたって、餅が固くなってから受け取った。その方が重さが軽くなっているからである。これも合理的な考えだ。
 あるとき、近所の若者が藤市に長者になる方法を教えてもらおうとして、暗くなってから藤市の家に行った。2人は部屋に通されると、台所で鉢を摺っている音がした。2人は夜食がでると思い、喜んだ。藤市が部屋にきて、若者の質問に答えた。いつまでたっても夜食はでなかった。話の最後に藤市は、<もう夜食の時間だが、それをださないのが長者になる心がけだ>といった。鉢を摺る音は大福帳の表紙に引く糊(のり)を娘にひかせたものであった。

 
井原西鶴「日本永代蔵 巻三 煎(せん)じやう常とはかはる問薬(とひぐすり)」を読む

 社会学の巨人であるマックス・ヴェーバーはアメリカでの資本主義の発展とプロテスタントの倫理感とに強い関係があることを発見した。プロテスタントの倫理感とは禁欲・勤勉である。この禁欲・勤勉が資本主義的合理性となって資本主義を発展させたというわけである。
 翻って、日本の江戸時代にもプロテスタントの倫理感に似たようなものがあった。儒教的倫理感がそれである。儒教的倫理感にも禁欲・勤勉が含まれており、特に商人がそれを重んじた。そのため、西洋ほどではないが、江戸時代の日本でも資本主義は発展した。明治以降、日本が急激に近代的資本主義社会に発展していくのは、日本の社会の素地として儒教的倫理感があったからである。
 商人として成功するには何をさしおいても禁欲・勤勉でなければならなかった。禁欲とお金を儲けることとは矛盾するように思われるが、禁欲とは贅沢をしないということで、お金を儲けることとは矛盾しない。
 お金がたまると、人は贅沢をしたがる。一旦贅沢になると、なかなか贅沢から抜け出せず、次第に経営が悪化して、最後は分散(自己破産)になることがある。「日本永代蔵」には分散になった商人の話がたくさん載っている。親から莫大な遺産を相続した二代目が身上を潰してしまう話が中心である。
 贅沢をしたいのは人間の本能である。まして、お金が有り余っている大商人ならなおさらである。だが、西鶴はこの贅沢を戒めている。
 西鶴は自由奔放に生きる人間を描く反面、儒教的倫理感というものをたいへん重んじた人である。ただ、西鶴のすごいところは、説教顔をして儒教的倫理感を説くのではなく、おもしろおかしく説いてくれることである。
 今回取り上げる「日本永代蔵 巻三 煎じやう常とはかはる問薬」は金持ちになれる薬を飲んだ男が本当に金持ちになった話である。

 長者丸(ちょうじゃがん)という金持ちになれる薬がある。この薬の処法は、早起5両・家業20両・夜詰8両・達者7両である。両とは薬の重さの単位で1両は4匁に相当する。家職とは仕事に励むこと、夜詰とは夜なべで仕事をすること、始末は倹約すること、達者は健康でいることである。ただし、この薬だけでは利かない。毒断ちをしなければならない。毒断ちとは次のことをしないことである。
○美食と淫乱と絹物を普段着ること
○女房を乗り物に乗せて贅沢をさせ、娘に琴・歌がるたをやらせること
○息子にいろいろな楽器を習わせること ○鞠(まり)・揚弓・香会・連歌・俳諧
○座敷普請・茶の湯道楽 ○花見・舟遊び・昼風呂に入る
○夜歩き・博打・碁 ○町人に無用な居合や剣術
○自社参詣・後生を願う気持 ○諸事の仲裁や保証の判をおすこと
○新田開発の出願と鉱山に関係すること
○食事ごとの飲酒・煙草好き・当てのない京上り
○勧進相撲の金主・奉加帳の世話役
○家業のほかの小細工や金の放し目貫に凝ったりすること
○役者に見知られ揚屋と近づきになること
○月は8厘より高い利息の借金
さて、この長者丸を飲み、毒断ちをした若い男は、江戸で商売を始めた。元手はなかったが、男は大工たちが落とす鉋(かんな)くずや木片を集めた。さすが江戸の町である。1荷(1人でかつげる量)を集め、これを売ると250文になった。この仕事を押し進めて、男はいよいよ大商人になり、かくれない大金持ちになった。薬が見事にきいたのである。 男は70歳を過ぎるとさすがにもう不養生もかまわないと思い、少しの贅沢をしてたのしい老後を送った。

 長者丸を作り出すとはさすがに西鶴である。

 
作文道場井原西鶴(いはらさいかく) 本名:平山藤五(ひらやまとうご)。
1642年(寛永19年) - 1693年(元禄6年).。大坂生まれ。1682年(天和2年)に発表した。『好色一代男』によって、浮世草子作家としての地位も獲得した。江戸時代の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳人。別号は鶴永、二万翁。
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