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読書感想文
 
井原西鶴「西鶴諸国はなし 卷四 『忍び扇の長歌』」を読む

 江戸時代は身分制が厳格であった。よほどのことがないかぎり、武士階級の人間が町人・百姓と結婚できなかったし、同じ武士階級でも、身分の低いものと高いものとの結婚は許されないことであった。まして、大名の姫と身分の低い中間(ちゅうげん)の結婚などありえないことであった。もし、大名の姫と中間が関係をもったら、中間は死罪、姫は一生監禁された。身分を越えた結婚は命がけの行為であった。それでも、恋するもの同士は一緒になろうとした。
 また、姦通に対しても厳しかった。今でいう不倫などしたら、これは立派な重犯罪で両人とも死罪であった。人妻と男が姦通をし、人妻の夫が姦通の場を見たら、その場で殺してもよかったのである。不倫をして殺されても文句などいえなかった。不倫もまた命がけであった。この制度は明治時代まで存続した。
 不倫ではないけれども、夫に先立たれた妻は再婚することができなかった。夫と死に別れた女は一生、夫のことを弔い、そして独身を通さなければならなかったのである。
 江戸時代は平和でのどかな時代であったが、その本質は堅苦しいものであった。特に、男と女の世界は融通のきかないものであった。男と女が好き合うというのは自然の情である。封建社会というのは、自然の情にまで規制を加えたのである。
 だが、男と女が好き合うのは人間の本当の姿だと見抜く西鶴は、男と女の恋沙汰にお上が関与することにさすがに異を唱えている。かなり勇気のいることであったろう。今なお西鶴が読み継がれている1つの理由は西鶴の反骨精神にあるのではないだろうか。
 今回取り上げるのは、「諸国はなし 巻四 忍び扇の長歌」である。この話は、男女の世界に口をだす制度に対する西鶴の見方が読み取れておもしろい。西鶴は人間の自然の情というものをとても大事にした人である。だからこそ西鶴の作品は古典になったのであるが。

 江戸の大名屋敷に、大名の姪である姫が住んでいた。その屋敷に中小姓の身なりの男が召し抱えられた。男は姫が外に出かけるときはお供をするようになり、いつしか、姫と男は恋仲になった。
 2人は熱烈に恋し合い、大名屋敷にいてもどうなるものでもないので、いよいよ2人は大名屋敷から駆け落ちした。2人は江戸の町の一隅に身を潜めたが、いつしかお金がなくなり生活に行き詰まった。
 一方、大名屋敷では姫の行方を必死になって捜した。毎日、50人のものが捜索にあたった。半年ばかりして、2人は捜しだされた。男は死罪になった。姫は死罪でなく、切腹になった。だが、姫はなかなか切腹しようとしなかった。
 当主の大名から早く姫を切腹させろといわれた使者が姫に、<世間のきまりですから、ご覚悟を>というと、姫は、<私は命を惜しむものではありません。自分に不義なところはありません。人間として生まれて、女が男を思うことは当然のことです>といい、さらに、<不義とは妻ある男を思い、死に別れたあと後夫を求めることをいうのです。男をもたない女が女を持たない男を思うのは不義ではありません>といった。
 姫は男が殺されたことを嘆き、そして男を弔うために仏道にはいった。

 西鶴にとって、男と女の恋沙汰に身分の違いなど関係なかったのである。大名の娘だろうと、百姓の娘だろうと男に恋するだろうし、大名でも旗本でも場末の女に恋することもある。恋を人間の掟で縛るのはとんでもないことであると、西鶴は憤っていたのではないか。
 男と女の関係は自由奔放であるべきだと西鶴は思っていたに違いない。だからこそ、「好色一代男」「好色一代女」「好色五人女」などの優れた男と女の物語を書くことができたのである。

 
井原西鶴「西鶴諸国はなし 卷五 『銀(かね)が落としてある』」を読む

 江戸時代、商業の中心は大坂であった。江戸は武家の町であった。江戸には大名の家族そして家臣が大勢住んでいた。江戸は大消費地であったのだ。
 三井越後屋をあげるまでもなく、江戸の大商人は西から来たものがほとんどである。江戸の店はさながら江戸支店といった観を呈していた。大商人の店は日本橋のメイン通りに店を構えていた。逆にいうと、日本橋に店を構えることが商人としての成功の証でもあった。
 下りものというのは、西から東すなわち江戸に下ったもののことである。酒や醤油などはすべて下りもので、高級品であった。関東で作られたものは下りものよりも一段低いものと見られた。<くだらない>の語源はここからきているといわれている。
 大坂の商人たちは江戸に出向いて一旗を上げようとした。江戸は商売がしやすかったのである。江戸幕府が成立してから元禄期まではいわゆる江戸の高度成長期で、江戸での商売はうまくいきやすく、たくさんの商人が財をなした。ちょうど西鶴が活躍している時期は江戸の経済発展のピークで、徐々に陰りが見え始めた。それでも、大坂からたくさんの人間が江戸を目指したのである。
 西鶴は驚くほどの多面的な作家であるが、西鶴の専門分野を一つだけあげろといわれたら、それは商人道であると私は思う。西鶴らしさは「日本永代蔵」「世間胸算用」などの商人ものに色濃くでていると思うからだ。
 諸国はなしは全国の土地のおもしろい話を集めたものであるが、商人のことも扱っている。今回取り上げる話は、「西鶴諸国はなし 巻五 銀が落としてある」である。銀はかねと読む。「日本永代蔵」「世間胸算用」には銀は頻繁に出てくる。<銀(かね)が銀(かね)を生む>というのが、西鶴の商売哲学である。この哲学は現代の市場経済の精神と違わない。
 なぜ、銀がかねなのかというと、江戸時代では、江戸は金、大坂は銀が流通していた。江戸では小判のように、金がお金として使われ、大坂では1匁銀のように、銀がお金として使われた。そのため、江戸から大坂、大坂から江戸へ行く場合はお金を交換しなければならない。この金と銀を交換するところが両替屋である。銀は秤量貨幣(重さが単位の貨幣)なので、両替するときには正確に重さを測らなければならなかった。そのためには分銅のついた秤が必要であった。この秤についても西鶴の作品にはよく出てくる。

 さて、「銀が落としてある」の話であるが、ある商人が江戸で成功して大坂に帰ってきた。
 ある男が自分もこの商人みたいになりたいと思い、その商人に江戸に行って商売をしたいのだが、何をしたらよいかときいた。
 商人は冗談とも本音ともとれるように、<今日では金を拾うのがよろしいでしょう>といった。男は正直者であったから、真に受けて、江戸で金を拾おうとした。
 男は江戸に行き、奉公人の紹介所に寄宿した。男は股引、脚絆のなりをして江戸の町で実際に金を拾い始めた。十日もすると、紹介所の亭主が、<商売についての相談もせずに毎日どこへ行くのですか>ときいた。男は、<金を拾いにいっている>と答えた。亭主は笑ったが、男は、<十日間に銀五匁、七匁、先の折れた小刀、または秤のおもり、目貫の片方など四百種類ぐらい拾った>といった。
 亭主はおもしろい男だと近所の人たちに語ると、人々はおもしろがり、小判五両を出し合って男に拾わせた。
 男はそれからだんだん金持ちになって、日本橋の通り町に家を買い入れ、江戸で栄え続けた。

 この話は正直者が成功することを書いたものであるが、金を拾うのを商売にするなど、さすがに西鶴の考えつきそうなことである。

 
作文道場井原西鶴(いはらさいかく) 本名:平山藤五(ひらやまとうご)。
1642年(寛永19年) - 1693年(元禄6年).。大坂生まれ。1682年(天和2年)に発表した。『好色一代男』によって、浮世草子作家としての地位も獲得した。江戸時代の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳人。別号は鶴永、二万翁。
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