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読書感想文
 
林芙美子「放浪記(ほうろうき)」を読む

新宿区宝泉寺にある林芙美子墓所 昔は文士といえば貧しいものと相場が決まっていた。その代表格は葛西善蔵であった。葛西は津軽出身で、太宰治の郷里の先輩にあたる。太宰は葛西を尊敬していた。葛西の貧乏は筆舌(ひつぜつ)に尽くしがたいほどで、私は葛西の「子を連れて」を読んだとき、しばし唖然としたものである。林芙美子は「放浪記」の中で、この葛西のことに言及している。
 「放浪記」を初めて読んだとき、貧乏について書かれたものであるが一種の爽快感を感じた。これほど貧しかったのかとは思ったが、この作品は暗く、じめじめとはしていなかった。この作品を底から支えている林の打ちのめされてもめげることのない生命力を感じた。

 林芙美子の「放浪記」はその名が示すとおり、放浪を綴ったものである。この作品にはいろいろな地名がでてくるが、中心となるのは東京と尾道である。林は下関で生まれた。本籍は鹿児島県である。8歳のとき、母は再婚し、20歳年下の男と結婚する。母と義父は行商をして各地を転々とする。その中で、尾道には長く滞在し、林は苦労して尾道高等女学校を卒業する。尾道は林にとって故郷であり、現在では尾道は林芙美子が住んだ町として喧伝されている。
 林は生れ落ちてからと言ってよいほど貧乏にとりつかれていた。特に、義父が行商をしていたころは赤貧洗うがごとしであった。尾道では家を借りることなく、木賃宿に住んだ。林は木賃宿から学校に通ったのである。このような境遇もめずらしい。学校は夜働きながら卒業した。
 女学校を卒業すると、林は学校時代から恋仲になっていた因島出身の大学生を追って東京に向かう。このとき大正15年である。「放浪記」は林が東京に出た大正15年から5年間雑記帳に書きためた日記を本にしたものである。
 東京に出てから、林の貧乏には拍車がかかる。その日の食費もなく、泊まるところもないという状況がたびたび記述される。そして、貧乏と切り離せないのが林の男運のなさである。因島の男にはだまされ、それから新たに出会って同棲までする俳優や詩人たちからもひどい仕打ちを受ける。
 当然のように林は職を転々とする。どれも長続きはしない。下女、女中、事務員そしてカフェーの女給などをやる。なぜか苦界には身を沈めなかった。「放浪記」を一言でいうと、貧乏・孤独の物語といってもよい。これほど赤裸々に貧乏を描いたものもめずらしい。しかし、私はこの作品を読むたびに勇気づけられる。
 今回「放浪記」を読みなおして、私は貧乏に苛まれ、孤独に打ちひしがれる林をなぐさめるものがあったことに気がついた。それは夥しい量の読書であった。この作品にはたくさんの作家・詩人たちの名前や作品名がでてくる。外国の作家の名だけでも、トルストイ・ドストエフスキー・チェーホフ・プーシキン・ゴーゴリ・ゴールキー・ゴンチャロフ・ゲーテ・ボードレール・ハイネ・イプセン・ワイルド・ハウプトマン・ホイットマンなどで日本の作家・詩人たちの名も数えきれないくらいたくさんでてくる。驚くばかりの読書量である。
 林はお金が少しできると、古本屋で本を買い、そして寸暇を惜しんで本を読んだ。本を読むことで自分の存在を確かめているようだ。お金がなくなると、本を古本屋に売った。林の目標は作家になることであった。時間を惜しんで詩・童話そして小説を書いた。それらの原稿をもって出版社に売りつけた。だがほとんど金にならなかった。机などというものはなかった。ミカン箱が机の代わりであった。
 私が「放浪記」に共感する理由の一つは林の本好きである。私にも長い間苦しい時期があったが、救ってくれたのは本であった。ロマン・ローランの「ベートーベンの生涯」は感動的な本である。あの歴史上最も偉大な音楽家といわれているベートーベンは終生貧しかった。名前が売れてからでも穴の開いた靴をはいていたほどだ。彼は貧乏に苦しみながらも曲のことばかりを考え続けていた。貧しくその日の生活にも困りながらも20代の林はつねに創作をこころがけていたのである。
 林は逆境にあうといつも自殺を考えるが、<やはり生きていたい>と気持ちを切りかえる。苦しくても、つらくても創作意欲は衰えず、一生懸命生きようとする。「放浪記」の多くのファンが時代を超えて根強く存在しているのは苦しくても這い上がっていこうとする林の姿に共感するからであろう。

 芸術座主催・森光子主演の演劇「放浪記」は記録的なロングランである。多くの人が帝劇に足を運んだ。林は素寒貧(すかんぴん)の状態でお濠端を歩いたことがある。彼女は煌々と輝く帝劇の灯りをみた。帝劇はそのときの林には何の縁もないものであった。帝劇は金持ちが行く一種の社交場であった。その帝劇で「放浪記」が何度も上演され多くの観客を魅了した。その光景を泉下の林がみたらどう思うであろうか。

※:写真は、新宿区宝泉寺にある林芙美子墓所です。

林芙美子「浮雲(うきぐも)」を読む

 林芙美子は色紙などに好んで、<花の命は短くて苦しきことのみ多かりし>と書いたらしい。林の人生を振り返ると、この言葉は強く胸を打つ。
 林が苦しい思いをしたのは何も戦争があったからではない。かえって戦争は林の苦しみを和らげたのではないのか。林の苦しみのもとになっているのは、終生、消えることのない孤独感であった。
 戦争中、人気作家であった林は従軍記者として仏印(ベトナムあたり)など、南方に滞在した。女の作家では林一人であった。林は男顔負けの行動で国のために尽くしたのである。これらの行動が林に孤独を一時忘れさせたかもしれない。
 戦争が終わって、林は超多忙な流行作家になった。だからといって、林は孤独から開放されたわけではなかった。孤独感は戦争が終わってますます募ってきた。
 林の「浮雲」を読んだとき、私は男と女、いや人間の孤独というものを痛切に感じた。それはとりもなおさず、林自身の孤独でもあったに違いない。
 林は作品を書き始めた頃、極貧のただ中にあって、書いた作品を方々の出版社に売りに回った。ほとんどの作品は売れなかったが、たまには売れて、それで林は糊口を凌いだ。このような体験があったから、戦後流行作家になっても、林はどんな仕事の依頼も断らなかった。林は書きまくった。林は昭和26年、満47歳で死んでいる。あまりにも若い死である。死因は心臓発作で、おそらく過労のためであろう。
 林はなぜ、命を縮めてまでたくさんの仕事をこなしたのであろうか。私は作品を書き続けることによって、孤独から逃れたかったのではなかろうかと思ってしまう。
 林の作品が半世紀以上たっても、人々の心を打つのは、林が真摯に孤独と戦ったからだと思わざるを得ない。時代に関係なく、人間は誰しも孤独であると思うからだ。

 「浮雲」の主人公は、幸田ゆき子とその愛人の富岡の2人である。ゆき子はタイピストであり、農林省に勤務していた。戦争中、農林省の派遣員として仏印に送られた。仏印の林業調査の部署でタイピストとして働くためである。
 その地で、ゆき子は富岡と出会い、深い関係になった。富岡は農林研究所の所員であった。富岡は内地(日本のこと)に妻がいたが、ゆき子と将来結婚することを約束した。仏印の地は、2人にとって夢の地であり、忘れられない良き思い出の地となった。
 戦争が終わり、ゆき子が1人で東京に帰ってきたときから、物語は始まる。ゆき子は富岡と再会することができたが、富岡は仏印のときとは全く別人になっていた。富岡は何とかゆき子を遠ざけようとした。富岡は農林省をやめて、いろいろな仕事に手をだしたが、すべて失敗した。富岡には夢も希望もなく、ただその日をかろうじて生きているような状態であった。
 ゆき子も生活に窮し、パンパン(街娼)みたいなこともやったし、昔、身体を弄ばれた義弟の世話にもなったりした。ゆき子にも希望がなく、あるのは凄まじい孤独感と絶望だけであった。
 そんな2人であったが、離れてもまたくっつくということを繰り返した。2人は伊香保になけなしの金を持って旅行に出た。富岡はそこで死ぬつもりであったが、死ぬどころか、若い人妻といい関係になった。富岡は衰えても男の色気は持っていた。ところが、この若い愛人は夫のもとから逃げ出し、夫に殺されてしまう。
 富岡は若い愛人の死に出会い、そして、自分の妻も困窮の末に病死してしまう。富岡は人生に絶望するが、屋久島の営林署の仕事を見つける。
 物語の最後、何もかも処分して、ゆき子と富岡は屋久島に行った。屋久島は1ヶ月35日雨が降るといわれているところで、いつも雨が降っていた。屋久島について、まもなくして、ゆき子は口から血を吐いて死んでしまう。富岡はすさまじ孤独の中で一人生きていかざるを得なかった。

 「浮雲」にはまさに浮雲のように流れていく男と女の深い孤独が見事に描かれている。

 

写真は、西武新宿線中井駅から徒歩数分の所にある新宿区立林芙美子記念館です。
林芙美子墓所まで、およそ徒歩10分です。

 
作文道場林 芙美子(はやしふみこ)。
本名:フミ子、1903年12月31日 - 1951年6月28日)。
小説家。尾道市立高等女学校(現広島県立尾道東高等学校)に進学
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