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読書感想文
 
中村建治「メトロ誕生」を読む

 地下鉄銀座線の銀座駅の改札口を出た地下街の一角にある人物の胸像が建っている。その胸像を説明するプレートは<地下鉄の父>と紹介している。その人物は日本で最初に地下鉄を運行した早川徳次(のりつぐ)である。
 現在、大都市特に東京圏では地下鉄が交通の主役といってもよい。東京のどこにいくにも地下鉄が便利である。地下鉄があまりにも当たり前の存在になっているので、ことさら地下鉄のことを考えることはしない。ところが、日本で最初に地下鉄を通そうとしたときには一人の人間の想像を絶するような血の滲む努力があったのである。
 誰もやらない新しいことをするにあたっては気違いじみた人間が必要である。日本に地下鉄を通すにあたっても気違いじみた人間が必要であった。その人間こそ早川徳次であった。

 中村建治著「メトロ誕生」(交通新聞社)には早川が東京に地下鉄と通したときのことが詳しく書かれている。感動的な本である。早川が自分の夢・理想をどんな障害にもめげずに実現した人であるからだ。単なる経営者ではなかった。理念の人であったのだ。
 早川は明治14(1881)年、山梨県に生まれた。紆余曲折の末、早稲田大学を卒業し、後藤新平の紹介で南満州鉄道に入社する。以来生涯に渡って鉄道に身を捧げる。30代半ばで独立し、単身、鉄道と港湾に関して研究するためにロンドンにいった。はじめは港湾に鉄道を敷設することで港湾を活性化できると思っての研究であったが、ロンドンで地下鉄に乗って早川の考えは変わった。東京が最も欲しているのは地下鉄であると認識したのである。そして東京に地下鉄を通すことを決意する。当時の東京の街は拡大しつつあり、交通手段は貧弱であった。路面電車はいつもぎゅうぎゅう詰めの満員であった。東京の交通の不便さを解消するには地下鉄が一番だと早川は思ったのである。
 地下鉄を通すことを決意したものの、実際に動きだしてみるとやはり山あり谷ありの連続であった。何よりも地下鉄を作ることに理解を得られなかった。東京に地下鉄が走ることは不可能だと誰しもが思ったのである。だから、地下鉄を通す会社を起こそうにも資本金が集まらなかった。それでも早川は苦心の末、株式会社である東京地下鉄道を立ち上げた。
 山梨県人特有の粘り強さで早川が精力的に動き、政財界の大物(早稲田の創立者で元総理大臣の大隈重信もその一人)を動かし、鉄道省から認可をもらい工事に着工した。だが工事は簡単には進まなかった。何しろすべてが初めての体験であった。地下鉄を作る専門の技術者はいなかった。何度も工事は中断したがなんとか開通までこぎつけた。
 日本で最初の地下鉄は上野・浅草間で運行された。昭和2(1927)年のことである。たいへんな反響であった。開通の日、早川は号泣した。
 早川は早速、区間を延長し、区間は新橋・浅草間になった。地下鉄が交通の大きな手段になることを世間も感じ始めた。と同時に、早川の会社と競合する会社も現れた。早川の成功を見て、それまで地下鉄に批判的であった財界人が地下鉄事業に参入してきたのだ。その一人が現在の東急電鉄を創業した五島慶太であった。
 五島も東京高速鉄道の経営者として渋谷・新橋間に地下鉄を通した。五島は新橋で東京地下鉄道に直通乗り入れをさせてくれと早川に迫るが早川は応じなかった。早川と五島の確執は泥沼の様相を呈したが、最後は五島が東京地下鉄道の株を買い占めることで勝負がついた。五島が勝利し、早川は東京地下鉄道を去った。
 早川は経営者としては五島に負けたが地下鉄を日本で初めて通したという名は永遠に人々の心に刻まれた。

 早川はなぜ地下鉄を通そうとしたのか。それはひとえに人々に快適な移動を提供したかったからだ。この考えが彼の理想にまで昇華した。
 夢・理想をもった人がいかに強くそして美しいかを「メトロ誕生」は教えてくれる。

銀座駅にある早川徳次像

※:写真は、銀座線銀座駅にある早川徳次像です。

銀座線の車両

※:写真は、昭和2年開通当時のカラーで運転している銀座線の車両です。

中村建治「山手線誕生」を読む

 一流の政治家とは何が何でも自分の信念を押し通すものである。たとえ、独裁者と呼ばれようと、国そして国民のためになると思えば、誰が反対しようとも政策を実行する。
 近代の日本が経済発展した理由はたくさんあるが、その1つが鉄道の敷設であったことに異を唱える人はいないであろう。
 明治5年に、新橋・横浜間に鉄道が敷かれてから、封建社会から近代国家に変身したばかりの日本の経済が大きく動き始めたのである。
 現代の私たちからすれば、鉄道は当たり前のものであり、空気みたいなものである。ところが、この鉄道が日本で初めて敷かれる計画があがると、轟々たる反対の声が湧き上がった。この計画を推進したのが、伊藤博文と大隈重信であった。伊藤も大隈も日本が近代国家として成長するためには鉄道は絶対に必要であるという信念をもっていた。
 当時の列車は蒸気機関車であった。これは煙を出し、火の粉を散らすので、田畑や民家に被害を与えると思われていた。そのため、鉄道が敷かれる予定地の住人は頑として土地を売ろうとしなかった。
 伊藤も大隈も困った。それでも2人は何としても鉄道を通そうと思い、考えに考えた末に、大隈に名案が浮かんだ。それは、海の上に鉄道を通そうというものである。すなわち、海を埋め立て、その上に線路を敷くというものであった。イギリス人技師の指導によって、海は埋め立てられ、無事に線路は敷かれた。鉄道が最初に敷かれたときの新橋・品川間は海の上を走っていたのである。列車の窓からは東京の町並みと、逆方向には、遠く房総半島が見られたのである。
 伊藤と大隈の鉄道に対する執念がなければ、近代日本の発展はだいぶ遅れたかもしれない。伊藤も大隈も紛れもなく一流の政治家であった。

 中村健治著「山手線誕生」は東京を一周する山手線が誕生するまでの歴史を書いたものである。私はたいへん興味深く読んだ。著者の中村は鉄道博士のような人で、鉄道に関してはすみずみまで知っている鉄道学(という学問分野があるとすれば)の泰斗である。
 私はこの本を読んで意外と思ったことが2つある。1つは、山手線の全線が開通されたのが大正14(1925)年で、鉄道が初めて敷かれてから50年以上もたっていたことである。
 2つ目が、山手線の区間の中で、最も遅く開通したのが新橋・東京・上野間であったということである。東京駅ができたのが大正になってからであり、東京駅周辺の鉄道の整備は遅れたのである。それは、東京駅ができる丸の内が皇居の目の前で、そこを鉄道が通ることに差し障りがあったからであろう。
 山手線の開業区間を順を追って記すと次の通りである。
(1)品川・田町・浜松町・新橋 (2)上野・鶯谷・日暮里・西日暮里・田端
(3)品川・大崎・五反田・目黒・恵比寿・渋谷・原宿・代々木・新宿・新大久保・高田馬場・目白・池袋(4)池袋・大塚・巣鴨・駒込・田端(5)新橋・有楽町・東京(6)東京・神田(7)神田・秋葉原・御徒町(8)御徒町・上野
いずれの区間においても開業までの道のりは険しかった。たくさんの障碍(しょうがい)を乗り越えて開業されたのである。
 伊藤・大隈は政治家として鉄道を導入した人であるが、行政の人間として日本の鉄道の土台を築いたのは井上勝(まさる)である。井上は長州出身で、幕末、伊藤らと密航してイギリスに渡った。井上はその地で鉄道を見て、日本にも鉄道を普及させようと決意した。井上は日本の鉄道の育ての親とでもいうべき人である。

 鉄道の歴史はとりもなおさず近代日本の発展の歴史でもある。「山手線誕生」は鉄道の普及を通して近代日本の発展を見ることのできるたいへんおもしろくそしてためになる本である。

大崎駅で撮った山手線の車両

※:写真は、大崎駅で撮った山手線の車両です。

目白付近の山手線

※:写真は、目白駅付近で撮った山手線です。
山手線開通時に、台地だった土地を平らに掘り下げました。
当時は、蒸気機関車だったので、火事にならないように掘り下げました。

鉄道唱歌の石碑

※:写真は、新橋駅にある「鉄道唱歌」の石碑です。
当時は、地理の勉強のためにも用いられました。

作文道場中村建治(なかむらけんじ)。
昭和21年山梨県大月市生まれ。
明治大学政治経済学部卒業。鉄道史学会会員。鉄道史に親しむ一方、駅舎に関心を持ち、現在も全国行脚の旅を続けている。(本より抜粋引用)
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