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はじめに
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読書感想文
 
ウィリアム・シェイクスピア「ハムレット」(イギリス)を読む

 「ハムレット」といえば、<生きるべきか、死ぬべきか>であり、<尼寺へ行け>でもある。しかし、私は少し違った「ハムレット」感をもっている。。
 初めて「ハムレット」を読んだとき、私はフランスに戻る息子のレイアーティーズに捧げる宰相のポローニアスの説教ともいってよい餞の言葉をたいへん印象深く思った。私の目からうろこが落ちるような言葉であった。この言葉によって私はシェイクスピアを超一流の作家だと決定した。
 その言葉の内容とは以下のとおりである。

  1. 腹に思っても口には出さぬこと。
  2. 突飛な考えは実行にうつさぬこと。
  3. つきあいは親んで狎れず。
  4. こいつはと思った友だちは、鎖で縛りつけても離すな。
  5. けんか口論にまきこまれぬ用心せねばならぬが、まきこまれたらそのときは、目にものを見せてやれ。
  6. どんな人の話も聞いてやれ。だが、おのれのことはむやみに話すではない。
  7. 他人の意見には耳を貸し、自分の判断はさしひかえること。
  8. 財布の許すかぎり、身のまわりには金をかけるがいい、といってばかばしく飾りたててはいかん。凝るのはいいが、華美は禁物。
  9. 金は借りでもいけず、貸してもいけずと。貸せば、金を失い、合わせて友をも失う。借りれば、倹約がばからしいものというもの。
  10. いちばん大事なことは己に忠実であること。

 私は「ハムレット」というとつねにこのポローニアスの人生訓を思い出す。この人生訓はポローニアスのというより、シェイクスピア自身の人生訓なのであろう。この教えには現在でも通じる最高の真実が詰め込まれているように思われる。私にとってのシェイクスピアは人生の真実を垣間見させてくれる説教師みたいなところがある。
  劇中劇を城内の大広間で行うときにハムレットは役者の1人に向かって、思わず以下のような演技の心得を教える。

<要するに、せりふにうごきを合わせ、うごきに即してせりふを言う、ただそれだけのことだが、そのさい心すべきは、自然の節度を越えぬということ。何事につけ、誇張は劇の本質に反するからな。>

 このなにげないセリフは劇の本質をついているのであろう。シェイクスピアの作品にはこれと似たような、読んではっとする真実がいたるところに散りばめられている。シェイクスピアは劇の達人というよりも、人生の達人と呼んだほうがよいと私は思っている。また、シェイクスピアは人の心を読むことができるのではないかと錯覚してしまう。
  「ハムレット」は人の心の中を深く追求した悲劇である。

 デンマークのエルシノア城の銃眼胸壁のうえの狭い歩廊には夜な夜な亡霊が現れた。先日亡くなったハムレット王の亡霊であった。この亡霊のことをハムレット王の実の子であるハムレット王子が聞き及ぶことになり、ハムレットは亡霊と会った。ハムレットは亡霊から、ハムレット王が現在の王様のクローディアスに毒殺されたことをきいた。クローディアスはハムレット王の弟であり、兄のハムレット王を殺したあと、義理の姉である王の妃まで我が物とした。
  真実を理解したハムレットは復讐を誓う。ハムレットはまず、本当にクローディアスがハムレット王を殺したかを調べた。ハムレットは一計を案じ、城の中で奇妙な劇を催した。それは王様が毒殺される劇であった。その劇をクローディアスに見せて、その反応をハムレットは探ろうとしたのである。はたして、クローディアスの顔色は変わった。ハムレットはクローディアスが犯人だと確信した。
  ハムレットは着々とクローディアスに対して復讐の機会を用意しようとしたが、クローディアスのほうでもハムレットを抹殺しようとした。
  結局、ハムレットの一族は全員滅びることになる。国は他国のものに支配されるようになった。

 「ハムレット」は1つの国、そして1つの家が滅びる悲劇といってもよい。ハムレットの行動がすべてを悲劇に陥れた。ハムレットの行動は狂気の沙汰であったのか。
  私はハムレットは自分に忠実に行動したと思っている。

 
ウィリアム・シェイクスピア「リア王」(イギリス)を読む

 シェイクスピアの「リヤ王」は難解な作品である。筋はいたって簡単であるが、その主題が何かよくわからない。
 「リヤ王」のストーリー自体は大変有名である。また、「リヤ王」はシェイクスピアの4大悲劇の1つとしても有名である。しかし、その主題をどれだけの人が理解しているのであろうか。あのトルストイは「リヤ王」は駄作だといっている。
 私は「リヤ王」を何度も読み返した。そのたびに、シェイクスピアはこの作品で一体何をいいたいのであろうかと思った。読み始めた頃は「リヤ王」は私には受け入れ難い作品であった。それは「リヤ王」には救いがまったくなかったからである。私は芸術作品とはどこかに救いがなければならないという不文律を自然にもつようになっていた。その救いが「リヤ王」にはまったくないのである。実際には救いがあるのだが、私の能力がそれを見出すことができないのかもしれないが。
 栄華を誇ったブリテン王がすべてを失い、完全な孤独な状態になり狂気の人と化す。王はすべてを怨み、そして最後は狂気のまま死んでいく。
 シェイクスピアはやはり凡人には理解できない天才作家なのかもしれないとつくづく思うことがある。シェイクスピアは我々が見ることのできない世界を見ることができるのかもしれないし、また、人類の行く末を予見できる能力も身につけているのではないかと思うことがある。リヤ王の狂気はリヤ王自身の狂気ではなく、人類全体の狂気の象徴なのかもしれないと思ってもみる。それは人類に与えられた悲劇なのかもしれない。シェイクスピアがギリシャ神話を超えているというのもここらあたりが理由なのかもしれない。そもそも「悲劇」とは何ぞやとシェイクスピアを読むたびに考えさせられる。
 私は今回、「リヤ王」を読み直して、ふと、夏目漱石の「行人」のことを思いだした。「行人」は胃が痛くなるような小説である。「行人」の主題の1つもやはり狂気である。主人公の兄は狂気というより狂人そのものである。弟である主人公も、自分の妻も信じることができない。それでいて自殺できずに1日ただ苦しんでいる。漱石も狂気を何かの象徴として描いているのではないかと思ってもみた。

 リヤ王は栄耀栄華を極めたブリテンの王である。リヤ王には3人の娘があった。上からゴネリル・リーガン・コーディーリアである。リヤ王は3人に自分の領地を譲る決心をし、3人に自分のことをどれだけ思っているかを尋ねる。
 長女・次女の2人は言葉巧みにリヤ王が喜ぶことをいって、広大な領地をうまくせしめた。三女のコーディーリアは最も父親のことを愛しているにもかかわらず、口ではうまくリヤ王を喜ばすことがいえず、却って、リヤ王を怒らせることになる。激怒したリヤ王はコーディーリアにはそれこそ一片の土地すら与えず、フランスへと追い出した。コーディーリアはフランス王の妃としてブリテンから追放されたのである。
 2人の長女・次女にすべてを譲ったことがリヤ王の不幸の始まりであった。2人はリヤ王をないがしろにしたのである。2人は心から父親を愛してはおらず、彼女たちが愛していたのは自分自身であった。
 結局、リヤ王は余生を過ごすはずであった長女のお城にも次女のお城にもいることができなくなり、荒野を彷徨(さまよ)うことになる。リヤ王は数人の侍従を連れて嵐が吹きすさぶ中を歩きまわる。犬、乞食がとまるそまつな小屋で一夜を明かした。リヤ王一向はフランスとの国境のドーバーまでくる。このときリヤ王は完全な狂気の人であった。
 ドーバーにはフランス王の妃になったコーディーリアが父親のリヤ王を訪ねてくる。ブリテンの国情が乱れていると知ったフランスがブリテンを攻めようとしていたのである。 はからずもドーバーでリヤ王と3人の娘が一緒になった。リヤ王の回りは欲と嫉妬とエゴイズムの渦であった。。いろいろな人間が権謀術数をはかり自分の利益のために動いていた。その犠牲となって純真なコーディリアも殺され、最後はリヤ王と2人の長女・次女も死んだ。リヤ王一家は滅びたのである。

 リヤ王が三女の娘の心の中を見抜くことができれば悲劇は起こらなかったのかもしれないと思うのは主題を見失った読み方だろう。リヤ王が三女に対して激怒するのはどこか不自然であるが、実は、その不自然さが「リヤ王」の大きな主題なのかもしれない。「リヤ王」は親と子の絆そして裏切りの物語というよりもやはり人類全体の問題としてとらえたのがいいのかもしれない。
 シェイクスピアの作品は考えれば考えるほど深くなる。「リヤ王」はその典型的な作品である。結論はでないかもしれない。だからこそシェイクスピアの作品は現在でも燦然と輝いているのであろう。
 「リヤ王」は私には悩ましい作品である。

 
ウィリアム・シェイクスピア「ヴェニスの商人」(イギリス)を読む

 なぜユダヤ人は嫌われるのであろうか。歴史上、ユダヤ人ほど嫌われた人種はないのではなかろうか。それはユダヤ人の運命といえるものかもしれない。やはり、ユダヤ人がキリストを殺したことがその運命を決定したのであろうか。キリスト教徒のユダヤ人に対する怨みはたいへんすさまじいものであった。 
 ユダヤ人は金融の世界を中心に活動を広げた。現在においても、ユダヤ人は金融の世界では絶大なる力を誇っている。ユダヤ人が金融の仕事を始めたのはある意味キリスト教徒が仕向けたものである。キリスト教徒はキリストの教えによって、お金を貸して金利をとることができなかった。キリスト教徒にとってお金を貸す仕事は忌み嫌われる仕事であったのである。それをユダヤ人にやらせた。ところが、金融がしっかりしなければ資本主義は育たない。ユダヤ人のおかげで、資本主義は成長して現在に到っているのである。世界の進歩はユダヤ人のおかげだといってもよいくらいである。少なくとも私はそう思っている。ユダヤ人がこの世界を底辺で支えているのである。それでも、ユダヤ人は嫌われるのである。
 シェイクスピアの「ヴェニスの商人」を読んだとき、私がまず思ったことは、シェイクスピアが生きた時代も、ユダヤ人は蛇蝎のごとく嫌われていたということである。その嫌われ方は異常である。私は「ヴェニスの商人」のユダヤ人の高利貸しのシャイロックに深く同情した。
 「ヴェニスの商人」はシェイクスピアの劇では喜劇の部類にはいるものである。シャイロックを道化とみれば喜劇的なのかもしれないが、私には悲劇としか思えない。
 シェイクスピアが住んでいたエリザベス朝のロンドンには当時、ユダヤ人はほとんど住んでいなくて、シェイクスピアはユダヤ人を見たことがないといわれている。シェイクスピアは見たこともない人種を知識だけから、徹底的に軽蔑するものとして描いているわけである。
 「ヴェニスの商人」はわかりやすくたいへんおもしろい。ユダヤ人のシャイロックを悪魔に見立てて、ある英雄がその悪魔を退治するという英雄譚といえなくもない。

 ヴェニスに住む商人バサーニオはベルモントの貴婦人ポーシャに恋していた。ポーシャは美人で大金持ちでたくさんの人から求婚された。バサーニオは見事、ポーシャの心を射止めたのである。
 ところが、バサーニオはお金に苦しみ、友人のアントーニオを保証人として、高利貸しのユダヤ人シャイロックからお金を借りてしまう。アントーニオはシャイロックを嫌い、過去においてシャイロックの商売の邪魔をしてきた。シャイロックもアントーニオを憎み、何とかしてアントーニオに復讐してやろうという気持になっていた。アントーニオが保証する内容は、もし、期日までに貸したお金が返済できなければ、アントーニオの胸の肉1ポンドをシャイロックに差し出すというものである。
 お金は期日通り返済することができなかった。おまけにアントーニオの所有する船が難破して、アントーニオは破産しなければならない状態にあった。
 バサーニオはポーシャと結婚し、彼女に相談した。ポーシャはお金を融通してくれたが、シャイロックは契約書を盾にアントーニオの肉を要求した。
 シャイロックの要求は法廷の場に移された。そこへ、ポーシャ扮する裁判官が登場する。最初、裁判官はシャイロックに有利な発言をするが、しだいにシャイロックに不利な発言をするようになる。すなわち、1ポンドの肉を切るのは正当だが、正確に1ポンドの肉を切らなければいけないといい、そして血を流してもいけないといった。
 結局、シャイロックは裁判に負けた形となり、アントーニオたちは幸福に暮らすようになる。

 「ヴェニスの商人」はポーシャの奇想天外な行動・活躍が中心になるのだが、私にはシャイロックが気になる。シェイクスピアはシャイロックを単なる道化の悪人として描いたにすぎないのであろうか。
 どこかに、シェイクスピアはユダヤ人を描くに際して、悪人感情意外の意図をもっていたのではなかったのではなかろうか。たとえばユダヤ人とキリスト教徒の復讐劇といったような。
 今回読み直してもやはり、「ヴェニスの商人」の主人公はシャイロックであると私はつくづくと思った。

作文道場ウィリアム・シェイクスピア
1564 - 1616。イングランド中西部ストラトフォード・オン・エイヴォンに生まれる。20歳頃出馬、初めロンドンで役者、後に座付作者として活躍。エリザベス朝ルネサンス文学の巨星となる。47歳で突如隠退、余生を故郷で送った。(新潮文庫より)
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