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はじめに
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読書感想文
 
フョードル・ドストエフスキー「罪と罰」(ロシア)を読む

 安普請の学生アパートの狭い一室で「罪と罰」を読み終えたときのあの体が震えるような感動をいまだに忘れない。そのとき私は20歳になったばかりであった。以来、事あるごとに「罪と罰」を読み返した。「罪と罰」は私と一生をともにしてくれるよき伴侶ともいえる。私は人生の早い時期にこのような小説に巡り合えたことを幸福に思っている。
 「罪と罰」のすごいところは、学者が構えて研究するような哲学的な作品であると同時に、そんな構えをしなくて素直に読んでも、世界がひっくり返るような感動を与えてくれる作品であるということである。
 その感動の理由の1つはやはり「罪と罰」が人間の根源的な欲求を満たしてくれるからではなかろうか。少なくとも私は初めてこの小説を読んだとき、この欲求が満たされたのを記憶している。その根源的な欲求とは<許される>ことである。人間が一番求めているのは<許される>ことではないのか。なぜなら人間はかならず罪を犯すからである。どうして人は母親を絶対的なものとして慕うのか。母親はいかなる状況でもわが子を許すからであろう。
 ラスコーリニコフがソーニャに自分が犯した犯罪を告白したとき、ソーニャは自分のかけがえのない友人のリザヴェータも殺されたにもかかわらず、ラスコーリニコフに向かって、

<大通りに出て、私がやったと大声でいいなさい。そして、大地に接吻しなさい。>

 といった。そのとき、ソーニャはラスコーリニコフを許していたのである。それは人間の理性・知性を超えた感情である。ソーニャはラスコーリニコフを世界で一番不幸な人間だと見たのである。

 「罪と罰」の主人公は貧しさのため大学を中退した23歳のラスコーリニコフである。ラスコーリニコフは頭脳が明晰ではあったが妄想癖があった。彼は1つの理論をもっていた。それは人類には凡人と非凡人の2種類が存在し、非凡人は人類のために何をしてもよいというものであった。人類を幸せにするために、凡人の1人である虫けらみたいな金貸しの婆さんを殺してその財産を人のために使っても何の問題もないとラスコーリニコフは考えた。そして実際に行動を起こした。ラスコーリニコフは自分がナポレオンの生まれ変わりのような気分になっていたのである。
 ラスコーリニコフは斧でもって金貸しの婆さんを殺した。そのとき、部屋に入ってきた婆さんの妹のリザヴェータまでも斧で殺してしまった。この予期しない2番目の殺人はラスコーリニコフを苦しめることになった。
  ラスコーリニコフは殺人をする前日、居酒屋でマルメラードフという飲んだくれの元官吏と知り合いになった。マルメラードフは人生の敗北者ではあったが、哲学的な言葉をはいた。彼はラスコーリニコフに向かって、

<お若いの。行き場がないということがどんなにつらいことかあなたにはわからないでしょう。>

 といった。この言葉は「罪と罰」の1つの主題でもある。
 マルメラードフには家族があった。妻のカテリーナ・イワーノヴナ、長女のソーニャそしてソーニャの下の幼い3人の子たちで合計6人家族であった。マルメラードフとカテリーナは再婚同志である。ソーニャはマルメラードフの、3人の幼い子はカテリーナの連れ子であった。
 マルメラードフの一家は彼が真面目に働かないため、いつも赤貧洗うがごとくの状況であった。カテリーナはマルメラードフを呪い、そしてソーニャを詰(なじ)った。ある日、ソーニャはカテリーナの枕元に30ルーブリのお金を置いた。それを見たカテリーナはソーニャを抱き、接吻しながら泣いた。そのお金はソーニャが身を売って(娼婦になること)得たお金であった。そのときソーニャは10代半ばの少女であった。体を張ってソーニャはマルメラードフ一家をたすけたのである。マルメラードフの一家は当時のロシアの最下層の人たちを象徴する人たちであった。
  マルメラードフは馬車にひかれて死んでしまう。ラスコーリニコフはもっているすべてのお金をカテリーナに葬式代として渡す。これ以後、ラスコーリニコフとソーニャは切っても切れない関係になる。
 ソーニャとリザヴェータは年は離れていたが、2人でロシア語訳の聖書を読みあう仲であった。ソーニャは無神論者と思われているラスコーリニコフの本性を見抜いていた。ラスコーリニコフはソーニャの目からすれば、人類全体の幸福を願う愛ある人間であった。 最後、ラスコーリニコフは自首をする。

 <自己犠牲>をできる人だけが<人を許す>ことができるのである。<人を許す>キリストは<自己犠牲>の人であった。
 「罪と罰」はこの単純で永遠の真理をラスコーリニコフとソーニャという2人を通して具体的に提示している。
 ソーニャは<自己犠牲>の人である。彼女は人類すべてのために自分を犠牲にできる人であった。それは間違いなく聖母マリアと重なる存在である。知性の人であるラスコーリニコフもソーニャの愛にはかなわなかったのである。
 人は誰でもが第2のエルサレム(天国のこと)に行けるのだが、2種類の人間は行くことが不可能である、すなわち殺人者と姦淫したものは天国に行けないのである。このことは聖書に書かれている。人類のために<自己犠牲>をする娼婦のソーニャと殺人者のラスコーリニコフは天国に行くことはできないのである。これも「罪と罰」を深く重くしている大きな主題である。

 
フョードル・ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟」(ロシア)を読む

 ドストエフスキーを読み始めた頃、ドストエフスキー関連の本の中で、<ドストエフスキー体験>なる言葉をよく目にした。この言葉は人によって意味はまちまちではあるが、概して既成概念をうちくだくような考え方に出会う体験をしたときに使われる。その1つが、人間の心理の奥をのぞくような体験である。<あの、人の不幸を聞いたときに思わず出る笑みを彼はうかべた>というような表現に出会うことが<ドストエフスキー体験>なのである。ドストエフスキーの作品ではこのような真理がたくさん述べられる。私は最初、ドストエフスキーは偉大なる心理学者であると錯覚した。とにかく、人間の心の奥底に潜む潜在意識を抉(えぐり)り出してくれるのである。
  「カラマーゾフの兄弟」を読んだとき、私はすぐに<ドストエフスキー体験>なる言葉を意識した。というよりもこのような言葉を使わなければこの作品に対してどう評価してよいかわからなかった。それだけ「カラマーゾフの兄弟」は圧倒されるものだった。私には深く謎めいた作品であった。
 「カラマーゾフの兄弟」の世界は倒錯の世界でもある。悪と善、真と偽、希望と絶望、愛と憎しみ、人類がもつあらゆる理性と感情が入り乱れてぶつかりあって火花をだしている世界である。この世界では善は悪になり、悪は善になり、真は偽になり、偽は真になり、愛することは憎むことになり、憎むことは愛することになる。また、不条理が不条理でなくなる世界ともいえる。悪魔も登場して正義感ぶったことをいう。異常な世界だがまぎれもなく人間の世界なのである。人間の本当の世界ともいえる。人間とは何重にも仮面をかぶっている得体の知れない生き物だと「カラマーゾフの兄弟」は私に露骨に見せ付けてくれた。

 「カラマーゾフの兄弟」の中で、私がはっとさせられたのが、イワンがアリョーシャに元将軍の地主の話をしたときである。その地主は犬が大好きであった。たくさんの犬を飼い、そして優秀な猟犬に育てた。あるとき、地主の村の子が誤って地主の飼い犬の1匹に石をぶつけてしまった。その犬はびっこを引くようになった。それを地主が見つけ、びっこを引くようになった原因を調べた。原因を理解した地主は石を投げつけた子供とその親をよびつけた。地主は子供を素っ裸にし、逃げるように命じた。すかさず地主はたくさんの猟犬たちに逃げた子供を追いかけさせ、そしてかみ殺させた。この話をしたあと、イワンはアリョーシャに向かって、<この地主をお前はどうする?>ときく。間髪を入れずアリョーシャは<虐殺すべきです!>と答えた。このアリョーシャの言葉を聞いて、イワンはにやりと笑った。そのとき、アリョーシャは修道院の修道僧であり、キリストに仕える身であった。アリョーシャはすべての人を許すといったキリストの教えをはからずも踏みにじったのである。私の思考はこんがらかってしまった。と同時に「カラマーゾフの兄弟」の深い世界に引きずりこまれていった。
 「カラマーゾフの兄弟」は世界最高峰の文学の1つである。この作品のすばらしさは、人類の悪や不条理をこれでもかと描いていながら、その先に光が用意されていることである。その光は<虐待された子供たち>の未来である。
 「カラマーゾフの兄弟」の主題は<父親殺し>と<子供の虐待>である。

 事件はモスクワから遠く離れたある町で起こる。淫蕩の塊であるカラマーゾフ家の当主のフョードルが殺された。フョードルの長男であるミーチャが容疑者になった。フョードルには長男のミーチャ、次男のイワン、三男のアリョーシャの3人の息子があった。もう1人、フョードルの私生児といわれたスメルジャコフがいた。スメルジャコフはこの作品の陰の主人公ともいえる。彼の存在がこの作品を重く深くしている。
 ミーチャとフョードルは憎しみ合っていた。遺産相続で長い間もめていたし、グルーシェニカという女性の奪い合いをしていた。2人は恋敵でもあった。2人の確執はピークに達し、いよいよミーチャがフョードルを杵で殺したと町の住民は思った。
ミーチャは裁判にかけられ、無罪を主張したが、結局有罪になり、20年間のシベリア送りになった。
 実際にフョードルを殺したのはスメルジャコフであった。スメルジャコフはミーチャの公判の前日自殺をしていた。スメルジャコフは自分の犯行をイワンに話した。

 「カラマーゾフの兄弟」には中学生たちが登場してくる。アリョーシャは心の底から子供が好きであった。12,3人の中学生がアリョーシャを取り巻いた。子供たちもアリョーシャが好きであった。アリョーシャはさながら12使徒に囲まれたキリストみたいであった。
 父親殺しという世にも残忍な事件を扱いながら、ドストエフスキーは抜け目なく未来の人類である子供たちを用意していたのである。この子供たちの未来には希望があった。子供たちは<父親殺し>を超えていくはずである。
 「カラマーゾフの兄弟」を読むたびに、私はいつも、どんな状況でも人類の未来に光がさすのを見る思いがする。

 
フョードル・ドストエフスキー「白痴(はくち)」(ロシア)を読む

 ドストエフスキーの「白痴」を読んで特に印象深かった内容は主人公のムイシュキン公爵の語る死刑囚の話である。
 銃殺刑となった囚人はあと5分で銃殺される状況になった。彼はその残り5分を3つに分けて使おうと決めた。最初の2分間は友人たちのことを考え、次の2分間は自分自身のことを考え、そして最後の1分間はこの世の名残に回りの景色をじっくりみようと決めたのである。
 しかし、時間がたっていくにつれ彼はある想念に悩ませられた。それは<もし俺が生き残ったとしたら俺は無限の時間を手にすることができる。それでも1分を大事に使ってどんな少しの時間も無駄にはしない>というものであった。この想念が肥大し彼は苦しくなり一刻も早く銃殺にしてくれと心の中で叫んだ。
 ムイシュキン公爵はこの話をするとき、もう1つ死刑についての話をしている。彼は死刑反対論者であったが、その理由は死刑は確実に死ぬ時がわかるからだという。確実にいついつ死ぬとわかっているときの恐怖はとても人の心では耐えられないというのだ。
 この2つの話はドストエフスキーの創作ではない。彼が実際に体験した話だから興味をそそられるのである。
 ドストエフスキーは1848年、ある社会主義思想のサークルの急進的なメンバーとして逮捕される。最初の判決は銃殺刑であり、ムイシュキン公爵が語る銃殺の場面を経験することになる。ドストエフスキーは完全に殺されると思っていた。ところが、銃殺の準備が整ったとき、突然皇帝の恩赦が発表され銃殺刑の囚人たちは命拾いした。その後、ドストエフスキーはシベリア送りとなった。4年のシベリアでの囚人生活が作家ドストエフスキーに計りしれない影響を与えたことは有名な話である。

 「白痴」は私にとってはドストエフスキーの作品の中では最もといってもいいくらい難解な小説である。それでいてたいへん魅力的な小説でもある。その魅力はやはり主人公のムイシュキン公爵の天真爛漫でやさしい性格とナスターシャ・フィリポヴナの悪魔的ともいえる美貌によるものであることは間違いないところである。
 ムイシュキン公爵は20代半ばの青年である。小さな小包1つをもってスイスからペテルブルグに帰ってきた。ムイシュキン公爵は持病の癲癇の治療のため、長年スイスの療養所にいたのである。
 この長い物語はムイシュキン公爵がスイスからペテルブルグに帰る列車の車内の描写で幕を上げる。ムイシュキン公爵はこの列車の車内でロゴージンという金持ちの商人の息子と知り合いになる。ロゴージンはナスターシャ・フィリポヴナという女性の話をし、また、ナスターシャを自分のものにするという決意をムイシュキン公爵に打ち明けた。ナスターシャは絶世の美人で純粋な心をもっていたが、人の愛人にもなれる娼婦的な一面ももっていた。
 ペテルブルグに着くとムイシュキン公爵はエパンチン将軍家を訪れた。この一家には将軍の他に妻と3人の娘がいた。3人の娘はすべて美人で特に20歳の末っ子のアグラーヤは美しかった。
 ムイシュキン公爵を中心として、その回りをエパンチン家の人々、エパンチン家と関係のある人々、そしてロゴージンとナスターシャが囲むようにしてこの物語は展開されていく。
 ムイシュキン公爵の綽名は「白痴(ばか)」である。ところがムイシュキン公爵は頭脳明晰で物語の大半を占める種々の議論に対して、明快に論理的に自分の意見を主張している。
 母親が反対するにもかかわらず、ムイシュキン公爵はアグラーヤと恋に落ちた。結婚しそうになったが、破局した。アグラーヤがムイシュキン公爵がナスターシャを愛していることを確信したからである。
 物語の最後、ムイシュキン公爵はナスターシャと結婚した。しかし、結婚するとまもなくしてナスターシャはロゴージンのもとへと逃げ出してしまった。ムイシュキン公爵はナスターシャを追いかけ、ロゴージンのもとへ駆けつけた。そこで見たものはロゴージンによってナイフで胸を一突きされて死んでいたナスターシャであった。
 ロゴージンを不信に思った人々がロゴージンの部屋に押し入ったとき、彼らは異様な光景を目にした。死体のナスターシャを真ん中にしてロゴージンとムイシュキン公爵が寝ていたのである。ムイシュキン公爵はえへらえへらと笑っていて、正真正銘の白痴になっていた。

 ドストエフスキーは友人にあてた手紙の中で、「白痴」のテーマは<無条件に美しい人間を描くことである>と書いている。ムイシュキン公爵ははたして美しい人間であったのだろうか。彼は世界を救うのは美であると哲学少年のイッポリートを前にしていっているが。
 ドストエフスキーは同じ手紙の中で、本当に美しい人はキリストしかいないとも書いている。
 やはり「白痴」は難解な小説である。

 
作文道場フョードル・ドストエフスキー
1821-1881。ロシア生まれ。19世紀ロシア文学を代表する世界的巨匠。1846年の処女作「貧しき人びと」が絶賛を受けるが、48年、空想的社会主義に関係して逮捕され、シベリアに流刑。出獄すると「死の家の記録」などで復帰。61年の農奴解放前後の過渡的矛盾の只中にあって、鋭い直観で時代状況の本質を捉え、「地下室の手記」を皮切りに「罪と罰」「白雉」「悪霊」「未成年」「カラマーゾフの兄弟」などを残しました。(新潮文庫より引用)。
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