数学道場、総合案内
line decor
 
line decor
日本文学編に戻る
名曲を聴きながら
名作を読んでください
line decor
読書感想文
 
舟橋聖一「絵島生島」を読む

両国 舟橋聖一生誕地 駒込駅近くに六義園(りくぎえん)という庭園がある。この庭園は江戸時代、小石川の後楽園とともに二大庭園といわれた、たいへん広く美しい庭園である。六義園は柳沢吉保が五代将軍徳川綱吉から下屋敷として与えられたものである。
 柳沢は綱吉の信が篤(あつ)く、権勢を振るっていた。柳沢の役職は側用人であった。側用人とは正式名は御側御用人(ごそばごようにん)といい、将軍の側近中の側近で、将軍と政治を司る老中との橋渡しをしたが、実際には、老中たちをさしおいて政治の実権を握っていたのである。何しろ将軍と私的に繋がっているので、老中たちも側用人には逆らえないのである。赤穂浪士の処罰も柳沢が決めたといわれている。
  綱吉が死んで、六・七代の将軍の側用人になったのが、間部詮房(まなべあきふさ)であった。間部も柳沢に負けず劣らず、権勢をほしいままにした。ところが、腐敗した権力というものは長続きしないもので、間部の権力も地に堕ちた。その原因になったのが、絵島生島事件だといわれている。
 絵島生島事件は幕府を揺るがす大疑獄事件であった。大奥の大年寄の絵島と超売れっ子スターであった山村座の役者生島新五郎の恋仲から発生した大奥の乱れた所行に対して、老中たちが大奥の粛清を行ったものである。
 大奥の大年寄といえどもたかが女中の筆頭であり、スターといえども当時の役者は穢多・非人と同じ扱いであった。そんな二人がいい仲になっただけで、大疑獄事件になったのには、やはり裏があったのであろう。老中たちは、大奥を牛耳っている間部詮房を失脚させようとして、絵島・生島の恋仲を利用したというのが真相らしい。
 舟橋聖一の「絵島生島」は絵島と生島の真剣な恋に光を当てた名作である。私はこの小説を読んで、絵島に対する見方を変えた。絵島は好色でも何でもない。一途に生島を愛したのである。生島も遊びで絵島に惚れたのではなく、こちらも真剣に惚れたのである。「絵島生島」は悲恋小説といってもよい。

 町人の娘であるお初は大奥の女中になった。お初は左京の局のお世話をすることになった。左京の局は六代将軍家宣の側室で、将軍から寵愛され、将軍の子を生んだ。お初は左京の局にたいへん気に入られた。
 家宣が一番信用しかつ信頼していた家臣は側用人の間部詮房であった。家宣が死ぬと、家宣の遺言により、左京の局の子が七代将軍家継になり、大奥のことは一切間部が取り仕切ることになった。
 左京の局は落飾して月光院と呼ばれるようになった。月光院は将軍のご生母であり、亡き家宣の正室であった天英院よりも大奥では力をもった。間部は月光院にうまく取り入り、二人は夫婦同然になった。
  お初は月光院から信頼され、とんとん拍子に出世して、奥女中のトップである大年寄に昇進した。名前も絵島に変わった。
 大奥には月光院を恨む勢力が存在した。天英院の一派であった。彼らは手を変え品を変えて月光院の追い落としを策略し、その策略にひっかかり、いつしか月光院の右腕であった江島はご法度になっている芝居見物に出かけてしまった。そして、絵島は生島と恋に落ちたのである。
  ご法度とはいえ、絵島には今をときめく権力者の月光院がついており、その後ろにはこれまた権勢並ぶもの無き間部がついていた。絵島は平気で生島と情事を重ねた。
 結果として、絵島と生島は罰せられた。老中たちは絵島と生島を捕え、月光院と間部との関係を洗い出し、間部を葬ろうとしたのである。
 絵島と生島は死刑になるところであったが、月光院の嘆願により、死一等を減ぜられ、江島は高遠藩のお預けになり、生島は三宅島送りとなった。

 「絵島生島」は華麗に大奥の姿と芝居の役者を描写している。まるで絵巻物を見ているようだ。

※:写真は、両国に建っている舟橋聖一生誕地の石碑です。

 
舟橋聖一「花の生涯」を読む

世田谷豪徳寺 井伊直弼墓所 以前、横浜の掃部山(かもんやま)公園に行ったとき、いささか驚いたことがある。その公園には何と井伊直弼の銅像が建っていたのである。考えてみると、公園の名前である掃部山は直弼の官位である掃部頭(かもんのかみ)からとったものである。
 公園は横浜みなとみらい21を見下ろす高台にあり、直弼の像は横浜港に向かって建っている。直弼は現在もなお横浜港を見守っているのである。
 近代日本が築かれるにおいて、横浜は大きな原動力になった。世界の文物が横浜を通して流入し、日本人は横浜を通して海外に行った。横浜が残した功績は計りしれないものがある。
 そもそも横浜は江戸時代から発展したわけではない。近くの神奈川が賑わっていて、東海道には神奈川宿があった。横浜村は寒村であった。
 1858年の日米通商条約の際、日本はいくつかの港をアメリカに対して開かなければならなかったが、アメリカは神奈川を開港することを要求した。時の大老井伊直弼はこれを受け付けず、横浜村を開港することに決定した。その後の横浜の果たした役割を鑑みればこの決定が的を射たものであることがわかるだろう。直弼は横浜の恩人であるばかりでなく、日本の恩人でもあるわけだ。
 しかし、直弼の評判は悪い。その理由は、歴史の教科書に、勅許を得ずに独断で日米通商条約を締結したと記されているからである。おまけに、反対派を強引に粛清(世にいう安政の大獄である)した。殺された人間の中に吉田松陰がいたことが、直弼の歴史上の価値を決定的にした。松陰の教え子たちが、明治になるとぞくぞくと政府の高官になるに及んで、直弼は極悪人という烙印を押された。現在でも、直弼のことを優れた政治家であるという人間はまれである。
 その歴史上の極悪人を主人公にした歴史小説がある。舟橋聖一の書いた「花の生涯」である。この作品は従来の井伊直弼のイメージを覆すような内容である。直弼の人間性に光を当てて描いている。私は読後、井伊直弼という政治家を先入観なしに見直そうと思ったくらいである。
 「花の生涯」はNHKの第1回の大河ドラマの原作になっている。たいへん評判がよかったという。

 井伊直弼は文化12(1815)年、13代彦根藩主の14男として生まれた。母は藩主の側室であった。14男で庶子のため、当然、将来の見込みはなかった。父の死後、32歳になるまで、埋木舎(うもれぎや)と呼ばれる風流な小さな邸で世捨人のような生活をした。300俵の捨扶持を与えられた部屋住みであった。
 ところが、人間の運命はどうなるかわからない。兄たちが次々と死んでいき、直弼は彦根藩主の後継者になり、結局、藩主になった。
 井伊家は徳川の譜代大名の中でも別格といわれる名門の家で、直弼は江戸城において頭角を表す。
 直弼は教養ある人間で、国学を長野主膳から学んだりしたが、その他に西洋の本なども読んでいた。そのため直弼は西洋の力をそれなりに知っていて、1853年のペリー艦隊の訪日のとき、時の筆頭老中阿部正弘に開国すべきだと進言している。
 物語は、直弼の埋木舎に住んだ時代から桜田門外の変のあと、長野主膳が殺されるまでを扱っている。
 長野には三味線を弾く芸人のたかという妖艶な美女の愛人がいた。たかは、長野を通して直弼に興味をもち、直弼と深い関係になったが、直弼は長野を思いやり、たかと縁を切った。長野とたかは夫婦同様の関係になり、直弼を全面的に助けた。
直弼にはたくさんの敵がいた。代表的なのが朝廷であった。たかは朝廷の動きを探るため八面六臂の活躍をする。
 直弼は冷静に行動し、真剣に日本の行く末を考えていた。

 歴史の教科書で悪といわれている人物ほど、文学的価値があると私は「花の生涯」を読んで思った。

※:写真は、世田谷豪徳寺にある井伊直弼墓所です。

 
作文道場舟橋聖一(ふなはしせいいち)。1904-1976。
東京本所生まれ。クリスマスに生れたので聖一と名付けられた。東京帝国大学文学部卒。大学入学後、劇団を結成。卒業後も大学講師を務めながら劇団活動を続ける。のちに小説を書き始め「由紀夫人絵図」などエロティシズムを含んだ独自の世界を擁立。他には作品に「花の生涯」<新潮社「絵島生島」から引用。>
読本プレゼント
line decor
株式会社河野 株式会社河野 Net個人指導道場
Copyright © 2007-2016 KOHNO.Corp All Rights Reserved.