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読書感想文
 
太宰治「走れメロス」を読む

 太宰治の友人であった檀一雄は「走れメロス」を読むと熱海事件を思い出したという。
 太宰は田舎の旅館で執筆することがあった。あるとき、太宰は熱海の旅館で執筆した。ところが、お金がなくなり旅館代が払えなくなった。それで太宰は東京に帰れなくなった。太宰の滞在は長引いた。東京にいる家族が心配して、檀が太宰を連れ戻そうと旅館にやってきた。檀は太宰と出会うと、自分の役目を忘れて2人して遊んだ。ミイラ取りがミイラになった恰好であった。
 結局、お金がないので太宰1人が東京に帰ってお金を持って帰ることになった。檀は人質として旅館にとどまった。
 太宰はすぐに戻るといって出て行ったのだが、待てど暮らせど太宰は戻ってこなかった。業を煮やした檀は東京に太宰を探しにいった。太宰は井伏鱒二の家におり、悠長に井伏と将棋を指していた。怒り心頭にきた檀は太宰に詰め寄った。そのとき、太宰はしみじみと<待つ方がつらいか、それとも待たせる方がつらいか>といった。
 以上が熱海事件である。
 私は「走れメロス」を読むたびに、この熱海事件のことを思い出す。<待つ方がつらいか、待たせる方がつらいか>という煩悶は多くの人たちが人生の中で経験することではないだろうか。言葉を変えていうと、<裏切られる方がつらいか、裏切る方がつらいか>も同じである。
 太宰は死ぬまで、<待たせるつらさ>を味わったのかもしれない。

 「走れメロス」は一見健康的な小説である。ところが、何回となく読むと、太宰の嘆きに似た声が聞こえてきそうである。
 王様は完全に人を信用できなくなってしまった。王様は暴虐の限りを尽くした。罪もない人たちを殺した。
 王様の蛮行に怒った正義の人メロスは王様を諌めようとしたが、逆に王様はメロスを死刑にしようとした。
 メロスには妹がいた。メロスは王様に3日間の時間を与えてくれるよう懇願した。3日の間に村に帰って妹の結婚式を済まして、再び王様のもとへ帰ってくるつもりだった。そのために、身代わりとしてメロスの友人であるセリヌンティウスを置いていくといった。セリヌンティウスは何もいわず、了承した。王様はメロスが戻ってこないことを見越して、メロスの提案を受け入れた。人間とは信用できないものであると王様は頑なに思っていたのである。
 メロスは村に帰り、無事に妹の結婚式を執り行った。それから急ぎ王様のもとへ走った。しかし、豪雨のために橋がこわれていたり、山賊たちに襲われたり、そしてかんかん照りの太陽の下、いよいよ体力を使い果たし倒れてしまい、そのまま動けなくなってしまった。メロスは一瞬、王様のもとへ行くのをあきらめた。一生懸命やったのだから友も許してくれるだろうと思った。
 だが、メロスは起き上がり、走り始めた。メロスは走りに走り、いよいよ今にもセリヌンティウスの刑が執行されようとしている刑場に着いた。メロスは間に合ったのである。 メロスは友を一瞬なりとも裏切ろうとしたことを恥じて、セリヌンティウスに自分を殴れといった。友はメロスの頬を大きな音がでるくらい強く殴った。逆に、セリヌンティウスは友を一瞬なりとも疑ったことを恥じて、メロスに自分を殴れといった。メロスはセリヌンティウスの頬をこれまた強く殴った。
 この2人の姿を見て王様は感動し、2人の仲間にいれてくれるよう頼んだ。メロスの誠が王様の心を変えたのである。

 メロスが勇者であったのは確かである。だが私は王様と太宰がだぶってしょうがなかった。人間を信用できない王様は裏を返せば太宰の姿ではなかったのか。
 何とかして人を信用したい、人間とはすばらしいものだと自分を鼓舞するつもりで、「走れメロス」を書いたに違いない。

 
太宰治「富嶽百景」を読む

 私は毎年12月23日の天皇誕生日を迎えると、天皇陛下がお生まれになった昭和8年12月23日のことをかならず思い出す。
 その日は太宰治が長兄に会った日である。太宰は24歳で、東京帝国大学の学生であったが、数日前に太宰は大学を卒業できないことを知った。その報告をするため長兄に会ったのである。長兄は青森の名士で頻繁に東京に来ていた。大学を退学するのだからもう実家から援助はしないと太宰は長兄からいわれた。太宰には最後通告であった。
 意気消沈した太宰を連れて、長兄は銀座にくりだした。太宰は3歩下がって師の影を踏まずではないが、3歩下がって長兄の後を頭を下げてしょぼしょぼと歩いた。すると、突然ファンファーレが鳴り響き、街中が大騒ぎになった。待ちに待った皇太子が誕生したのである。銀座中が喜びの渦になった。長兄は、<よかった。よかった>とつぶやきながら涙を流した。
 大学をやめた太宰は作家として生きざるを得なかった。それから29歳になるまで、太宰にはいろいろなことが起こった。地獄の連続といってもよい。それでも必死になって作品を書き続けた。
 太宰の創作期間は通説では3つの期間に分けられる。1期は29歳まで、2期は29歳から終戦まで、3期は終戦から死ぬまでである。
 「斜陽」「人間失格」など太宰の代表作は3期の作品であるが、私は2期の作品が大好きである。2期に書かれた作品は健康的でのびのびと書かれており、何よりも明るい。2期は昭和13年から始まるのだが、前年の日中戦争開始以来、日本は暗い時代に突き進んでいた。太宰の作品は暗い中で一際光っていたのである。

 2期の初めに書かれたのが「富嶽百景」である。太宰は昭和13年の秋に井伏鱒二を仲人として見合いをした。相手の女性は甲府に住んでいた。見合いと仕事を兼ねて、太宰は御坂峠に数ヶ月滞在した。滞在した日々のことを随筆風に書いたのが「富岳百景」である。 「富岳百景」は申し分のない名文である。名文中の名文といってもよい。すばらしいの一言に尽きる。のびやかに、富士山のことを中心に身辺のことを書いている。あまりの文章のうまさに私は何度も唸った。
 太宰は富士のことをどう思っていたのであろうか。太宰はとにかく権威というものを嫌った。それは太宰だけでなく、東北人の姿勢なのかもしれない。太宰は富士をどこか権威の象徴として見ていた節がある。<お前なんか単なる山ではないか。みんなが素晴らしいというから素晴らしいのであって、本当は素晴らしいとも何ともない>と太宰は最初はいいたかったのかもしれない。
 ところが富士がよく見える御坂峠の茶屋で何日も過ごしていくうちに、富士はいろいろな表情を見せるし、太宰の富士に対する見方もいろいろと変わってくる。だんだん太宰は富士の素晴らしさに気付いたのかもしれない。しかし、負けず嫌いな太宰は富士は素晴らしいとはっきりとはいわない。
 ある日、太宰は甲府に行き、そして御坂峠への帰り道はバスに乗った。バスの中にたいへん上品なおばあさんがいた。そのおばあさんを見ていると、太宰は気持ちがよくなった。すると、窓外の風景を見ていたおばあさんがふと、<おや、月見草>といい、路傍のある地点を指差した。太宰はその地点を見た。そこには黄金色の月見草の花が1つ見えた。
 大きな富士に対峙して咲いている可憐な月見草。太宰は感動した。<富士には、月見草がよく似合う>と太宰はすぐさま思った。この言葉は裏を返せば富士の雄大さを褒めたことになる。太宰は月見草を褒めることによってはからずも富士のことを褒めてしまったのである。心憎いまでの太宰の筆である。

 「富嶽百景」以降、太宰はたくさんの名作を書いていく。そのままずっと書いてほしかったと返す返す思う。

 
太宰治「グッド・バイ」を読む

 戦後、太宰治は一躍流行作家になった。太宰の文章が、長い戦争で打ちひしがれた人々の心を癒してくれたのであろう。太宰人気はすさまじいものであった。
 流行作家になった太宰を囲む会が行われた。その会に参加した人の一人に東京帝国大学生の詰襟を着た若き三島由紀夫がいた。
 ある頃合を見て、三島は太宰の側近くに寄り、<太宰さん、私はあなたが嫌いです>といった。太宰は、<でも、この会にきたのだから好きなんだろう>とどこか媚びるようにいったという。この話は三島の「太陽と鉄」という随筆に書かれたものである。三島は太宰が大がつくほど嫌いであった。
 私は三島の話を正直にも信じていたのであるが、太宰担当の編集者の一人である野原一夫が太宰の回想記の中で、この三島の話を真っ向から否定している。会のとき、野原は太宰の隣に座っていて、三島が、<太宰さん、私はあなたが嫌いです>といったとき、太宰は即座に、<だったら来なきゃいいだろう>といったという。
 三島と野原の話はまったく食い違っているのだが、私は二人とも正しいと結論付けた。ただ、時間のずれがあったのだ。太宰は確かに、<だったら、来なきゃいいだろう>といったはずだ。だが、時間がたつと、太宰は三島のことが気になりだした。流行作家の自分にきつくいわれたことが、三島青年の将来に影を落とすのではないかと心配になった。それで、おもむろに三島のところへ行き、やさしく、<でも、この会に来たのだから好きなんだろう>とでもいったのではないか。
 太宰は気が強いが、やさしい気持を持った男だと私は思っている。特に、太宰は年下の人間を気遣った。やはり太宰は多くの人から好かれる愛すべき人間なのである。
 太宰の最後の作品は「人間失格」ではない。未完ではあるが「グッド・バイ」である。何やら意味深なタイトルである。「人間失格」は、太宰が二十代の終わり頃に書くと予定した作品である。太宰はこの作品を書くために作家活動をしたともいえる。実際に、「人間失格」を書き終えると、肩の荷を降ろしたように、気が楽になった。もうこのときは死を決意していたのかも知れない。
 「グッド・バイ」は「人間失格」の後、気軽に書いたものであるから、太宰の才能が遺憾なく発揮されている。このような作品を書き続けていたら、日本にモーパッサンのようなブラックユーモアのきいた新しい文学が誕生していたかも知れない。ただただ惜しまれる。

 「グッド・バイ」の主人公は雑誌の編集長である田島周二である。何やらどこかできいたような名前である。太宰の本名である津島修治と似ている名前だ。田島はいくらかは太宰の分身なのかもしれない。太宰は田島を通してグッド・バイと世間に向かっていいたかったのだろうか。 
 田島は闇物資の横流しでかなり金を稼いでいた。田島は財力と持ち前の色男振りで十人近くの愛人を抱えていた。ある文壇の老大家の死をきっかけに、田島は愛人全員と縁を切り、妻子とつつましい生活を送ろうと決断した。
 考えあぐねたのはどうやって愛人を切るかであった。どの愛人も美人でおしとやかでいい女たちであった。なるべく彼女たちを傷つけないで別れたかった。
 田島が考えたのは、闇商売で知り合った永井キヌ子という女を、愛人たちに、私の妻であると紹介することであった。キヌ子は普段はもんぺをはいて重い荷物を背負っている汚ならしい女であったが、化粧をしてきれいな服を着ると、シンデレラみたいに絶世の美女に変身した。田島はキヌ子に謝礼をあげることを約束して、行動を起こした。
 最初にキヌ子を紹介した愛人は美容師であった。太宰と情死をした女も美容師であったことを思うと興味深い。美容師は田島の妻として紹介されたキヌ子を見て蒼白になった。田島は別れるとき、美容師にグッド・バイといい、札束の入った封筒をポケットにすべり込ました。
 これから二人目の愛人と別れるところで小説は終わる。

 「グッド・バイ」はやはり太宰の滑稽味を帯びた遺書だったのかも知れない。

 
作文道場太宰治(だざい おさむ)
1909年(明治42年)6月19日ー1948年(昭和23年)6月13日。
本名、津島 修治(つしま しゅうじ)
青森県五所川原市出身。東京帝国大学仏文科中退。
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