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読書感想文
 
有島武郎「或る女(あるおんな)」を読む
新橋駅前

 有島武郎は複雑な人であると私は思い続けている。今でもそうである。キリスト教に入信し、宗教に否定的になり、そしてキリスト教から離れ、はたまた私有財産を否定し、有島農場を手放す。トルストイ的といえばいえなくもない。
 高校生のとき、国語の教科書にのっていた「生まれ出づる悩み」を読んで私は感動した。作者有島の人間愛に触れた思いがした。それ以来有島は気になる作家であり続けている。
 「或る女」は大学生になってから読んだ。だが、落胆した。「生まれ出づる悩み」以上の感動を与えてくれると期待したからだ。主人公早月葉子は平気で人を裏切る“飛んでる女”ぐらいしか思わなかった。ただ、文章が非常に読みやすかったのを覚えている。かなり大部な長編を一気に読んだ。
 落胆はしたが、有島のことはつねに気になっていた。やはり、有島自身がよくわからない人であったからであろう。有島というと、思想家・哲学者という面が強く、それ以上に厭世観の持ち主のように見える。不思議なのは有島が白樺派の中心的な同人だということである。白樺派の主張は人生を肯定的に見ることではないのか。有島武郎と武者小路実篤が同じ派に属すとはピンとこない。
 有島とは結局、悩み多き人なのだろう。軽井沢で人妻と心中するのも悩みぬいた末のことだろう。キリスト教では自殺は禁止されているが。それよりも遺体が一ヶ月近く発見されずに、発見されたときは、原型を留めぬくらい腐乱し、蛆虫が部屋中わいていたという。この光景を思うとおぞましいかぎりである。

 今回、久しぶりに「或る女」を読み返した。私も年をとって常識家になったのか、読みながらやりきれない気持になった。正直葉子という女は許せないと思った。「或る女」が名作であり傑作であることは誰しもが認めることであり、私も認めることにはやぶさかでない。人物・風景描写、そして心理描写にいたっては一流中の一流のものである。ただ、読んだあとの後味が悪いのである。それは作品のよしあしとは関係ない。おそらく、この作品が醸し出す閉塞感のためだろう。
 葉子をアンナ・カレーニナと並べて考える評論家もいるが、ある面ではそうかもしれない。ただ、私は葉子はどうみても女の本能だけで動いていく女に見えてしょうがない。本質的に淫蕩な血が流れているとしか思えないところがある。ここのところはアンナ・カレーニナとは決定的に違うところである。
 葉子は最初の夫、詩人の木部と離婚すると、親戚の薦めで、キリスト教信者で実業家の木村と結婚することをやむなく承諾する。物語は、アメリカにいる木村に会いに、横浜から出立する明治34年秋から翌年の夏に渡って展開されていく。この一年間は葉子の人生そのものといっていいくらい波乱万丈の一年である。客船絵島丸に乗った葉子は、船の事務長倉地と恋仲になり、シアトルに着くも上陸せず、出迎えに来た婚約者の木村を袖にして、再び日本に帰る。
 日本に帰ってからの葉子は倉地と愛と肉欲に溺れた自堕落な生活を過ごす。倉地は肉感的な男で、本能のおもむくままに行動し、教養とは無縁な人間として描かれている。木村の友人で、有島その人をモデルにしたといわれる古藤とは対極にある人間である。葉子と倉地の生活は順調にはすすまない。船会社を葉子の一件で解雇された倉地は犯罪に手を染める。
 倉地と葉子は逃げ場のない袋小路に入り込む。おそらく、この小説が本質的にやりきれないのは葉子が「逃げ場がなく、救いのない」状況に陥っているからであろう。葉子自身本能にまかせて、自由に生きようとはするが、嫉妬の念に始終苦しみ、最後は肉体的な苦痛にもだえることになる。
 この物語で唯一光を放っているのが木村の存在である。木村はキリスト教徒らしく、葉子から裏切られても葉子を救おうとしている。木村は愛する人のために自らを犠牲にできる人なのである。

 人間ははたして心やすらかに自由にそしてのびのびと生きていくことができるのであろうか。これがこの作品のテーマといったところか。やはり、有島の悩みと重なってくる。 「或る女」が名作たるゆえんは時代を感じさせないところにある。物語の時代は日露戦争直前だが、これを現代にもってきてもこの物語は色あせない。それだけ人間の本質をついているからだろう。いつの時代になっても葉子的生き方は宿命的に存在するのかもしれない。

(写真:新橋駅前に展示している機関車。この小説は新橋駅より始まります。)

 
有島武郎「生れ出づる悩み(うまれいづるなやみ)」を読む

千代田区番町にある有島武郎、有島生馬、里見ク旧居跡 1904年、日露戦争がおこなわれているとき、ロシアの文豪トルストイはロンドン・タイムズ紙上で、「汝、悔い改めよ」と日露両国の首脳に訴えた。その記事を見て感心した人の1人が、当時アメリカに留学していた有島武郎である。
 有島の学問の経歴はおもしろい。彼は札幌農学校に入学したとき、担当の教師から「君の好きな学問は何か」と問われ、「文学・歴史」と答えたという。有島の卒業論文は「鎌倉幕府初代の農政」で、彼はこの論文で農学士となった。
 有島の前半生は学問・研究にあけくれたといってよい。文学・歴史だけでなく、彼の学問の領域は政治学・経済学・社会学・神学などはば広い。
 有島は帰朝後、東北帝国大学農科大学校(札幌農学校が改称)予科講師になるが、大正5年、結核の妻の養生のため、学校をやめた。妻の死後、有島は本格的に作家活動を始める。彼は短期間に夥しい作品を書いた。

 私と有島の出会いは「生れ出づる悩み」である。この作品は中学の教科書にのっていた。確か作品の最初の部分だけであったが、その内容はその後ずっと私の脳裏に残った。高校生になって、「生れ出づる悩み」を全部読み、そして、現在まで事あるごとに私はこの作品を読み続けている。

 「生れ出づる悩み」は有島の体験をもとに書かれたものである。この作品は「生きることとは何か」を真剣に問うたものである。
 札幌にいる文学者の「私」のもとに、東京の中学を退学した10代半ばの青年が訪ねてくる。彼は自分の描いた絵を「私」に見せた。「私」はその絵をみて、いささか幼稚ではあるが、驚かずにはいられなかった。その絵には不思議な力がこもっていた。「私」はその絵をほめた。青年は愛想のない人で、ほめられてもうれしそうにしなかった。逆に、この絵はどこがよくないかきいてきた。「私」は思ったことを正直に答えた。青年は帰っていった。
 それから10年、「私」はその青年とは会わなかった。数回手紙はきたが、会うことはなかった。だが、「私」は心の中でつねに彼のことを気にしていた。彼の名は木本といった。突然、彼から会いたいという手紙がきた。10年振りに再会した木本は10年前とは似ても似つかない人であった。結婚もしていた。腺病質な芸術家タイプの人間だった彼の風貌は大きく変わり、筋骨たくましい大男になっていた。
 「私」と木本が再会したのは、冬のある日の札幌であった。「私」と彼は夜を徹して語りあった。そして、翌朝早く、木本は大雪の中を岩内へと帰った行った。
 「私」は木本の「私」と出会ってからの10年と、現在の彼の生活について想像をめぐらす。
 木本の生活は苛酷な北の海に生きる猟師の生活である。パンのため、彼は吹雪の中を漁にでる。それこそ、板子1枚下は地獄の世界である。極寒の冬の海で、船が沈没して九死に一生を得たこともある。
 苛酷な労働に従事しても生活は一向によくはならない。ますます苦しくなるばかりである。逆に、資本家といわれる人たちはますます豊かになっていく。
 苦しい生活の中で唯一絵を描くことが彼の救いであった。彼は休むべき貴重な時間を割いて絵を描く。人は彼が絵を描くのを見て馬鹿にする。友人1人と妹だけが彼の理解者である。
 彼はいつも自殺の誘惑に駆られる。自殺を考えるたびに思いとどまった。

 この作品には「パンのために」という言葉が何回か出てくる。「パンのために」とは「生活のために」ということである。はたして、人はパンのために生きるのであろうか。その問いかけが「生れ出づる悩み」のモチーフでもある。「生まれ出づる悩み」は資本家と労働者という構図は描いているが、やはり、この作品が追求しているのは人間とは何か、生きるとは何かということである。
 主人公木本は孤独と絶望の中で生きている。それは「生きる」ということの意味をつかみ得ないからかもしれない。それは作者有島も同じであった。
 有島の自殺は「人はなぜ生きるのか」「人はなぜ生きなければならないのか」と懊悩(おうのう)した結果だったのか。
 「生まれ出づる悩み」が名作であればこそ、私は有島の悩みの深さを思わずにはいられない。

※:写真は、千代田区番町にある有島武郎、有島生馬、里見ク旧居跡です。

 
作文道場有島武郎(ありしま たけお)
1878年(明治11年)3月4日-1923年(大正12年)6月9日)。
小説家。学習院卒業後、農学者を志して札幌農学校に進学、キリスト教の洗礼を受ける。志賀直哉や武者小路実篤らとともに同人「白樺」に参加。1923年軽井沢の別荘(浄月荘)で波多野秋子と心中した。
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